人権擁護法案検討メモ―雑感その2

 え〜、「民主党案(人権侵害救済法)と政府原案(人権擁護法案)なら、どっちか」というお話が出ているようですが、

「んなもん、どっちもダメだろ」

 というのが私の変わらぬスタンスでございまして。理由は今まで縷々述べてまいりました通り。
 「アレな案」と「ちょいマシな案」を並べてみせるというのが、“アジェンダ設定”なのかもなあと思う次第であります。

<来し方>

 さて、“アジェンダ設定”といえば、私が人権擁護法案について最初に書いたのが「知財高裁と人権擁護法」(2005年3月11日)なのですが、その中で私は

人権侵害というのはおそらく裁判所にとってストライクゾーンど真ん中だと思われるのですが、従来の司法救済によっては救済しきれないと言うのでしょうか。私にはそう思えませんが、もしそうであるならば、裁判制度そのものを見直す必要があるわけで、人権擁護法による調停/仲裁なんていう特別法で何とかする問題ではないと思います。なんでそうならないのか。私は法律の専門家ではありませんので、素朴にそう思います。ただまあ、法案は一つの選択だろうとも思うわけで、それはそれで別途検討していきたいと思います。

 と疑問を述べております。例えば「匿名者からの誹謗中傷について、現状の争訟制度では迅速な被害回復が図れない」という問題は、「なりすまし詐欺」に係る民事訴訟についても類似の問題が存在するわけですから、「差別問題」だけでなく、民事訴訟における調査嘱託や弁護士照会の問題なのではないか、といったような疑問です。

これをきっかけに

「人間関系のこじれである人権侵害事件においては、調停が成立する可能性がかなり低いのではないか」(3月12日)

「(本法案が成立したら)司法審査の及ばないところで“思想犯”を晒し者に出来ちゃうんじゃないの?」(3月13日)

「誰もが利用しうる制度である。しかしむやみに利用頻度の高そうな人がいそうな気もする。そういうとき、どう考えるか。」(3月14日)

「安易に「ソフトランディング」などと言う言葉を用いて調停制度を流用しようとするのではなく、訴訟のもつ「事実を確定し公に宣言する」という機能をどう活かすかという方向で制度作りを考えるべき」(3月15日)

「『人権・差別の専門家=裁定者』となることが裁定者の中立性を疑わせるのであればむしろ有害であるとさえ言えるでしょう」(3月16日)

など、現在に至るまで法務省案について疑義を唱えてきたわけですが、他方

しかしまあ、ここまで「人権アレルギー(人権団体アレルギー?)」が強いものだとは思いませんでした。自由な議論が憚られた問題だから、ネット上でその抑圧された思いが噴出したということでしょうか。それとも単に差別感情の表れに過ぎないのか。議論が盛り上がりを見せて1週間以上が経過してもなお法案の誤読に基づくデマが流布しているのは、法案がややこしいということもあるのでしょうが「そう読みたい(そして自分も反対したい)」という欲求の現われでもあるように思います。
 「人権擁護」という言葉に含まれる欺瞞に対する嫌悪、解同や総連への敵愾心、政治や行政に対する不信などといったさまざまな感情の高ぶりが法案を“誤読”させているのですから、誤読を単に指摘するだけでなく、その背景にある感情に光を当てていく必要があるのでしょう。(3月18日)

 と、反対論の主流に対して距離を感じてもおりました。
 これは、私が「新たな人権救済制度は必要ない」と考えておらず、「何らかの制度創設は必要なのではないか」と考えているからです。

在日や被差別部落問題以外で本法案が適用されうるケースについてシミュレートせよとのご希望ですが、法務省ホームページに人権擁護行政についての資料が公開されており、そこに実際の「人権侵犯事件」の状況についていくつか例示されておりますので、*1適宜ご覧ください。一例を抜粋しますと、

「視覚障害者の宿泊に際しての盲導犬の同伴拒否 − 徳島地方法務局」
 徳島県視覚障害者団体が,県内の財団法人が設置運営する施設に宿泊の予約をし,後日,宿泊予定者のうち2人が盲導犬を同伴する旨伝えたところ,施設の老朽化が進んでいること等を理由に盲導犬の同伴を拒否され,結果的に,会員ら全員が別の施設で宿泊せざるを得なかった,との報道がなされた。
 この報道に接した徳島地方法務局は,直ちに調査を開始し,その結果,施設側の行為は,真にやむを得ない理由に基づかないで盲導犬等の同伴を拒否してはならないことを定めた身体障害者補助犬法に違反し,視覚障害者の自立や社会参加を制限するとともに,その人権を侵害したものであることが認められたため,同施設の長に対し,施設の運営を通じて,障害者を含めたすべての人の人権が守られる社会の実現に向けて努力し,再び本件のような行為を行わないことを求めて書面により説示した。(説示)

 上記のような事案について、人権委員会事務局職員が施設の立ち入り検査や従業員に対する事情聴取、また予約台帳等の留め置きを行うことで、事実関係の的確な把握を行うとともに当該予約拒否が本当に施設の老朽化等による「やむを得ぬ宿泊拒否」であったかどうかを判断し当事者に助言指導(勧告)を行うということになるでしょう。在日問題について豊かな想像力を発揮されておられるのですから、その他の問題についても少しお考えになれば容易にシミュレートできるのではないでしょうか。なにしろ「実際にあった問題」なのですから。(3月26日コメント欄)

 
「新たな救済制度を必要とするような人権侵害は存在しない(既存の制度で対応可能である)」という立場の方は、法務省の設定したアジェンダではなく、「新たな制度によって救済すべき人権侵害が存在するか」というアジェンダを自ら設定し、そこで議論を展開することを選ぶでしょう。
 私は「“逆差別”の問題も含め、差別問題を解決するためには何らかの制度創設は必要である」と考えているので、法案という法務省の設定したアジェンダに乗っかった上で、法案の内容について駄文を書き連ねてきたのです。

 「たぶん糾弾は行われる」
 おそらくそうだと思います。でも、何とかして公的な解決ルートに乗せていかなくては、いつまで経っても深刻な被害は減りません。
 私は“解同”のやり口を“総会屋”と同様だと考えています。総会屋は「株主権の行使」を口実に不当な利益供与を強要しますが、堂々と株主総会で議論する覚悟があれば、不当な圧力をかなり撥ね退けることができるはずです。公的な交渉のチャネルを確保しつつ、不当な圧力による利益要求については厳しく取り締まる、という方向に社会は向かうべきですし、人権擁護法はそのように機能するものでなければならないと思います。今のままではムリですけど。(それとともに、本当に苦しんでいる人々にとっても有効な制度でなければならないのですから、そう簡単なものではないですよね。)(3月21日コメント欄)
3 調停の申立がなされた後は、事件当事者及びその関係者は相手方の私生活もしくは業務の平穏を害するような言動により、相手方を困惑させてはならない。
 
調停外において相手方の生活の平穏を害するような私的交渉を行うことに対し直接的に罰則を設けることは困難ですが(貸金業法では違反者に対し業務停止などの処分を行う旨規定していますが、これは貸金業が免許事業であることを前提としているからです)、そのような私的交渉を正当な権利行使とは認めないと法文上明言することによって、悪質な取立て行為と同様に「エセ同和」「糾弾」が恐喝、脅迫などに当たるとして摘発されやすくなるのではないかと考えます。(2005年4月7日)

 法技術自体はニュートラルなものですから、制度に対する疑問や批判を無効化する働きだけでなく、疑問や批判を制度に反映させることにも用いることができるでしょう。「人権擁護」という理念そのものには誰しも異論がないのでしょうから、“逆差別”や“糾弾”をも「人権擁護」の名の下に駆逐しうる制度設計を修正案として掲げ、もしもこのような修正に応じなければ、推進勢力を「人権擁護の名を借りた既得権保護の策謀である」と思う存分叩く、このような形で法技術を用いることも視野に入れてもよいように思うのです。「人権擁護」という錦の御旗は、推進勢力の独占物ではないはずです。

<行く末>

 与党法務部会でこれほど紛糾しているのですから、未だ本法案の必要性については国民のコンセンサスが得られるまでには至っていないのでしょう。法案提出の機が熟すまで、与党内部でも国民の間でも大いに議論が行われるべきだと思います。
 しかし「イヤなものはイヤ」と声高に叫ぶことに終始する運動は、たとえ成功(法案の白紙撤回)を勝ち取ったとしても、現状を追認するだけになりはしないでしょうか*2。もちろん、「修正などありえない、白紙撤回あるのみである」という運動方針は、強力で、かつ正しいです。正しいのですが、「運動の成功」が「差別的言動の全面的正当化」という副産物を生じさせたり、本当に救済を必要としている人々を放置したりすることにならないだろうか、というのが、私がいま一つ反対運動の主流に距離を置いてしまう理由なのです*3人権擁護法の成立が“差別利権”という名の差別構造を温存するのではないかという危惧と同様に、法案反対運動の成功が被差別者排斥の解禁につながるのではないかという危惧があるように思えるのです。これは論理的帰結ではなく、私の感情の発露です。
 単純な「法案に対する賛否」だけであればいいのです。「私は反対」、それでいい。その部分では私も連帯できます。しかし「反対の、その先」を見たとき、主流を形成している反対論になかなか共感できず、戸惑ってしまうのです。
 というわけで、まあ軟弱な意見表明としては「想像力を思いっきり羽ばたかせることは必要だけど、一応は法制度をめぐる議論なんだから、法解釈というヒモを切ることはできないよねえ」ということと、「差別利権を叩く武器にできるような法制度を提案することも、カウンターとして有効なはずだよねえ」という今までのエントリー内容と変わらない陳腐なものになってしまいました。雑感ということで勘弁していただければ幸いです。

*1:http://www.moj.go.jp/PRESS/040219-1/040219-1.html

*2:漠然と「既存の法制度や個別立法による解決を目指すべき」と述べるにとどまるものもまた、結局のところ現状を追認しているに過ぎません。解決すべき人権侵害事象の存在を認めるのであれば、具体的政策の提示とまではいかずとも、少なくとも改善の方向性を示す程度のことをして初めて、立法論として価値を持つと言えましょう。

*3:もちろんこれは、“逆差別”“差別利権”の存在に対する不満・反発によって引き起こされているのですから、生じるべくして生じていると言っても過言ではないのですが。

「川崎市人権オンブズパーソン条例」と人権擁護法案(人権擁護法案検討メモ―番外編その9)

川崎市人権オンブズパーソン”については、和尚氏のブログ「ニヤリ」2005年4月4日付エントリー*1で取り上げられておりまして、私も少しコメントさせていただきました。

取り上げられていた事案(以下 当該事案という)は次のとおりです。

教員の暴言等による不適切対応

<救済申立内容等>
  1. 被権利侵害者 小学校低学年の児童
  2. 権利侵害者  担任教員
  3. 相談者    保護者(児童の両親)
  4. 救済申立内容
 児童は教室内で悪いことが起きるたびに、担任より大声で叱責を受けるなど、一年間つらい思いをしながら学校に通っていた。保護者は、担任教員の指導が適切でないと校長に訴えていたが、誠意ある対応がないため、救済を申し立てた。 <救済活動等> 人権オンブズパーソンは、救済申立てに基づき、教育委員会をとおして学校に調査実施通知書を送付し、担任教員や校長の面談を行った。   面談で、救済内容について事実確認をしたところ、担任教員は、児童の授業中の立ち歩きや、クラスメイトとのおしゃべりにより授業の中断を余儀なくされた時などに大声で注意をしたり、聞き入れられない時には腕を強くひっぱるなどの言動があったことが判明した。   人権オンブズパーソンは、校長と担任教員に、担任教員が児童の心を傷つけるような行き過ぎた言葉や行動があり、教育的配慮に欠けていたことを指摘した。   その指摘に対して、担任教員は事実を認め、自ら反省し、校長とともに保護者に謝罪した。また、校長は教育委員会に相談し、児童への行き過ぎた指導について反省を促すための研修を担任教員に対し行った。   また、人権オンブズパーソンは、児童の授業中の行動について現地調査を行い、行動を確認した。   その結果、人権オンブズパーソンは校長と話し合い、次の2点について要請した。一つには、市の総合教育センターに相談して指導方法の検討をすることや児童の発達状況に応じた継続的な支援を受けること。二つには、児童が安心して楽しく学校生活が送れるようにするため、学校全体で取り組む組織的な支援体制を早急につくること。   また、保護者には、児童が学校生活を楽しく過ごすため、学校と保護者が車の両輪になって協力することが大切であることを話し、保護者も納得した。 (川崎市人権オンブズパーソン 平成15年度報告書*2より)

なんじゃこりゃ。

<学校における生徒の人権>

 報告書に記載されている内容からは、児童がどの程度授業のジャマをしたのか、担任が児童に対して具体的にどのような制裁を加えたのか、はっきりとはわかりません。ただ、「一年間つらい思いをしながら学校に通っていた。」とあることから推測するに、「(当該)児童の授業中の立ち歩きや、クラスメイトとのおしゃべり」は日常的に行われており、また行為の態様も「授業中止むを得ずトイレに立つ」とか、「隣席の同級生にそっと文房具を借りる」とかいったような通常許容されるべき行動ではなく「授業の中断を余儀なくされる」ほどのものであったことも報告書から読み取れます。他方、担任教員の対応については「大声で注意をしたり、聞き入れられない時には腕を強くひっぱるなどの言動」であり「児童の心を傷つけるような行き過ぎた言葉や行動があり、教育的配慮に欠けていた」と抽象的に述べられておりますが、当該児童が少し動いたくらいで担任教師が何度も口汚く罵り続けたりといったような虐待等が行われた事実が認定された様子はありません。

 本来、学校というのは学生の教育という特殊な目的を有する空間(部分社会)であり、学校(教師)には、生徒の教育という目的の達成に必要な限度内において(法令に根拠がなくても)生徒に対する包括的支配権(命令権や懲戒権)が認められるというのが通説であり、また判例においても確立しているところです。
例:「大学は・・・一般市民社会と異なる特殊な部分社会」で「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は司法審査の対象から除かれ」「単位認定(授与)行為は特段の事情がないかぎり司法審査の対象とならない」(富山大学単位不認定事件(最判1977.3.15))
 ですので、一般的な人権理解に基づけば、授業の中断を余儀なくされるほど教室の秩序を乱す児童に対して学校(担任教員)が一定の物理力を以って児童の行動を制限することや、懲戒権を行使することは認められています(但し、学校教育法10条により体罰までは認められていません)。
 従って、教員の指導が前述のように虐待と認定しうるほど逸脱したものでない限り「人権侵害」と認定されないはずで、「川崎市人権オンブズパーソンは人権についてよく理解していないのではなかろうか」という感じさえ覚えてしまうような事例です。

 では、当該事案について、どうしてこのような「勧告」が出されたのでしょうか。

川崎市人権オンブズパーソンとは>

 まず、「川崎市人権オンブズパーソン条例」を見てみましょう。

川崎市人権オンブズパーソン条例(抜粋)*3>

(管轄)
第二条 人権オンブズパーソンの管轄は,次に掲げる人権の侵害(以下「人権侵害」という。)に関する事項とする。
(1)子ども(川崎市子どもの権利に関する条例(平成12年川崎市条例第72号)第2条第1号に規定する子どもをいう。)の権利の侵害
(2)男女平等にかかわる人権の侵害(男女平等かわさき条例(平成13年川崎市条例第14号)第6条に規定する男女平等にかかわる人権の侵害をいう。)

(人権オンブズパーソンの職務)
第三条 人権オンブズパーソンは,次の職務を行う。
人権侵害に関する相談に応じ,必要な助言及び支援を行うこと。
人権侵害に関する救済の申立て又は自己の発意に基づき,調査,調整,勧告,是正要請等を行うこと。
制度の改善を求めるための意見を表明すること。
勧告,意見表明等の内容を公表すること。
人権に関する課題について意見を公表すること。

(人権オンブズパーソンの組織等)
第八条 人権オンブズパーソンの定数は2人とし,そのうち1人を代表人権オンブズパーソンとする。
2 人権オンブズパーソンは,人格が高潔で社会的信望が厚く,人権問題に関し優れた識見を有する者のうちから,第2条第1項に規定する人権オンブズパーソンの管轄を踏まえて,市長が議会の同意を得て委嘱する。
3 人権オンブズパーソンは,任期を3年とし,1期に限り再任されることができる。
4 人権オンブズパーソンは,別に定めるところにより,相当額の報酬を受ける。

(市の機関に対する勧告等)
第十九条 人権オンブズパーソンは,調査の結果,必要があると認めるときは,関係する市の機関に対し,是正等の措置を講ずるよう勧告することができる。
2 人権オンブズパーソンは,調査の結果,必要があると認めるときは,関係する市の機関に対し,制度の改善を求めるための意見を表明することができる。
3 第1項の規定による勧告又は前項の規定による意見表明を受けた市の機関は,当該勧告又は意見表明を尊重しなければならない。
4 人権オンブズパーソンは,第1項の規定により勧告したときは,市の機関に対し,是正等の措置について報告を求めるものとする。
5 前項の規定により報告を求められた市の機関は,当該報告を求められた日から60日以内に,人権オンブズパーソンに対し,是正等の措置について報告するものとする。
6 人権オンブズパーソンは,第1項の規定により勧告したとき,第2項の規定により意見表明をしたとき,又は前項の規定による報告があったときは,その旨を申立人等に速やかに通知しなければならない。
7 人権オンブズパーソンは,第2項の規定による意見表明の内容を公表する。第1項の規定による勧告又は第5項の規定による報告の内容で必要があると認めるものについても同様とする。

(市の機関以外のものに対する調査等)
第二十一条 人権オンブズパーソンは,調査のため必要があると認めるときは,関係者(市の機関以外のものに限る。以下同じ。)に対し質問し,事情を聴取し,又は実地調査をすることについて協力を求めることができる。
第18条第3項の規定は,関係者に対する調査の場合に準用する。
人権オンブズパーソンは,調査の結果,必要があると認めるときは,人権侵害の是正のためのあっせんその他の調整(以下「調整」という。)を行うものとする。
人権オンブズパーソンは,調査又は調整の結果について,申立人等に速やかに通知するものとする。

(事業者等に対する要請等)
第二十二条 人権オンブズパーソンは,調査又は調整の結果,事業活動において頻繁な又は重大な人権侵害が行われたにもかかわらず事業者が改善の取組を行っていないと認めるときは,当該事業者に対し,是正その他必要な措置を講ずるよう要請することができる。
2 人権オンブズパーソンは,前項の規定による要請を行ったにもかかわらず当該事業者が正当な理由がなく要請に応じない場合は,市長に対し,その旨を公表することを求めることができる。
3 市長は,前項の規定により公表を求められた場合は,その内容を公表することができる。この場合において,市長は,人権オンブズパーソンの意思を尊重しなければならない。
4 市長は,前項の規定により公表しようとする場合には,あらかじめ当該公表に係る事業者に意見を述べる機会を与えるものとする。

 この条例と人権擁護法案(以下 本法案)とは非常に似通っていますね。
違うのは、

  1. 人権オンブズパーソンは合議体ではなく、それぞれが独立して活動している。
  2. オンブズパーソンの行う調査は任意調査であり、正当な理由なくこれに従わなくても制裁はない。

 といったところでしょうか。

 次に、人権オンブズパーソンが勧告を行う際の判断準則である「川崎市子どもの権利に関する条例」を見てみましょう。

川崎市子どもの権利に関する条例(抜粋)*4>
(前文)
子どもは、それぞれが一人の人間である。子どもは、かけがえのない価値と尊厳を持っており、個性や他の者との違いが認められ、自分が自分であることを大切にされたいと願っている。
子どもは、権利の全面的な主体である。子どもは、子どもの最善の利益の確保、差別の禁止、子どもの意見の尊重などの国際的な原則の下で、その権利を総合的に、かつ、現実に保障される。子どもにとって権利は、人間としての尊厳をもって、自分を自分として実現し、自分らしく生きていく上で不可欠なものである。
子どもは、その権利が保障される中で、豊かな子ども時代を過ごすことができる。子どもの権利について学習することや実際に行使することなどを通して、子どもは、権利の認識を深め、権利を実現する力、他の者の権利を尊重する力や責任などを身に付けることができる。また、自分の権利が尊重され、保障されるためには、同じように他の者の権利が尊重され、保障されなければならず、それぞれの権利が相互に尊重されることが不可欠である。
子どもは、大人とともに社会を構成するパートナーである。子どもは、現在の社会の一員として、また、未来の社会の担い手として、社会の在り方や形成にかかわる固有の役割があるとともに、そこに参加する権利がある。そのためにも社会は、子どもに開かれる。
子どもは、同時代を生きる地球市民として国内外の子どもと相互の理解と交流を深め、共生と平和を願い、自然を守り、都市のより良い環境を創造することに欠かせない役割を持っている。
市における子どもの権利を保障する取組は、市に生活するすべての人々の共生を進め、その権利の保障につながる。私たちは、子ども最優先などの国際的な原則も踏まえ、それぞれの子どもが一人の人間として生きていく上で必要な権利が保障されるよう努める。
私たちは、こうした考えの下、平成元年11月20日国際連合総会で採択された「児童の権利に関する条約」の理念に基づき、子どもの権利の保障を進めることを宣言し、この条例を制定する。

(子どもの大切な権利)
第九条 この章に規定する権利は、子どもにとって、人間として育ち、学び、生活をしていく上でとりわけ大切なものとして保障されなければならない。

(安心して生きる権利)
第十条 子どもは、安心して生きることができる。そのためには、主として次に掲げる権利が保障されなければならない。
(1) 命が守られ、尊重されること。
(2) 愛情と理解をもって育まれること。
(3) あらゆる形態の差別を受けないこと。
(4) あらゆる形の暴力を受けず、又は放置されないこと。
(5) 健康に配慮がなされ、適切な医療が提供され、及び成長にふさわしい生活ができること。
(6) 平和と安全な環境の下で生活ができること。

(ありのままの自分でいる権利)
第十一条 子どもは、ありのままの自分でいることができる。そのためには、主として次に掲げる権利が保障されなければならない。
(1) 個性や他の者との違いが認められ、人格が尊重されること。
(2) 自分の考えや信仰を持つこと。
(3) 秘密が侵されないこと。
(4) 自分に関する情報が不当に収集され、又は利用されないこと。
(5) 子どもであることをもって不当な取扱いを受けないこと。
(6) 安心できる場所で自分を休ませ、及び余暇を持つこと。

 ・・・もういいや。この「川崎市子どもの権利に関する条例」が人権擁護法案第二条・第三条にあたるわけですが、そりゃこんなのに基づいて判断すりゃ教員による指導の大抵は“人権侵害”になるでしょう。当該事案のオカシさは「人権侵害定義のあいまいさ」なんていうものじゃなく、「未成年者の権利には制限がある」「学校のような部分社会の中では、児童生徒は管理者(校長・教員)の包括的な支配を受ける」といった通説的な人権理解を飛び越えて「子どもは、権利の全面的な主体である(条例前文)」と言い切っちゃっている「川崎市独自の人権概念」に基づいて判断せよと条例が人権オンブズパーソンに命じていることに起因しています。
 人権オンブズパーソンに「特殊な基準に基づいて判断しろ」と条例で定めているのですから、人権オンブズパーソンが当該事案のような要請を学校や担任教員に行うのも無理はないように思われます。(それでも、真っ当な(通説的な)人権の考え方に沿って判断するのが有識者たる人権オンブズパーソンの良心だろうよ、とは思いますが)。

<当該事案の問題点>

 再言いたしますが、当該事案について、人権オンブズパーソンがどのような事実認定を行ったのか、はっきりとは判りません。この「はっきりとは判らない」というのが重要でして、「明らかに行き過ぎた制裁」であったということが報告書から明確に読み取ることができれば、教育現場をむやみに萎縮させることはないはずで、教室の学習環境を著しく乱す児童に対する一般的な教師の指導をも規制することまで予測させるような報告書(裁判における判決に匹敵するもの)の書きぶりには問題があるといわざるを得ません。*5

 また、人権オンブズパーソンが単独で判断を行う仕組みになっていることもこのような勧告が行われる原因の一つであると考えられます。合議制でなく単独制である人権オンブズパーソンは、調査の過程で事実認定に偏りが生じても(合議体よりも)軌道修正が困難ですし、ルール解釈においても人権オンブズパーソン個人の偏見が修正されないまま行われてしまう危険があるからです。
 さらに、人権オンブズパーソンの行った要請や勧告に対して異議を申し立てる制度が設けられていないのは致命的な欠陥です。これは「要請や勧告には処分性がないから」という理由からそうなっているのでしょうが、「要請や勧告」の当不当を争う方法が明確になされていないことの問題性については、拙ブログで何度も取り上げているところです。(法務省(及び与党人権懇)は、「勧告に対する不服申立制度の導入」を本法案修正の一つとしているようですが、その修正の中身をよく検討する必要があるでしょう。)

<まとめ>

 法案推進派の皆さんは、本法案が当該事例から推測されるような問題を解消しうるような制度設計になっていることを論証しなければなりません。他方、川崎市人権オンブズパーソン条例と本法案がまったく同様のものであるならばいざ知らず、準拠すべき基準(子どもの権利条例)の特殊性や人権オンブズパーソンの単独性、不服申立制度の充実(本法案においては現在修正予定)など異なる点が見られる以上、当該事例一例を以って本法案を全て否定してしまうのは短絡に過ぎるように思われます。
 ともあれ、当該事案を踏まえても、私が過去のエントリーで指摘した修正(人権侵害の定義における「その他人権侵害」の削除、人権委員等選任手続の厳格化、双方当事者が意見表明を行う機会の確保、公表規定の削除、調停中における私的交渉(糾弾)の制限、不服申立制度の明確化など)が行われない限り、本法案の成立には反対であるという私の見解が変化するものではありません。
 以上見てきたように、「川崎市人権オンブズパーソン条例」や当該事例は本法案を考える上で非常に参考になることは間違いありませんので、改めて今回取り上げてみた次第です。

*1:http://www.qyen.org/archives/001129.html#336

*2:http://www.city.kawasaki.jp/75/75sioz/home/jimu/15houkoku_person/p-nenji_004.htm

*3:http://www.city.kawasaki.jp/16/16housei/home/reiki/reiki_honbun/ac40011351.html

*4:http://www.city.kawasaki.jp/16/16housei/home/reiki/reiki_honbun/ac40010921.html

*5:裁判はこの点、詳細な判決理由を公開することにより結論だけが一人歩きしてしまうことを防ごうとしています。そしてそのことが裁判の“公正さ”を裏付けていることについては、http://d.hatena.ne.jp/an_accused/20050331において触れているとおりです。

「公正・透明な手続を行うために1・2」(福田氏『漂泊言論』)にお答えして

 拙ブログ「人権擁護法案検討メモ―番外編その8」に、福田さまからトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

<公正性について>

 私の中でもきちんと整理できていない問題ですので申し訳ないのですが、大まかに申し上げますと、私は「公正さ」を主に訴訟法や訴訟規則など審理手続の厳格な適用によって担保されるものとし、「公正らしさ」を裁判所法を中心とする裁判官の服務規程によって担保されるものであると位置づけています。ですから「『公正さ』についてですが、“内容の公正”と“運営の適正”を担保するためには手続的制約が必要だと考えることができます。ただこれは、例えば裁判所法を見る限りにおいて、特段「手続的制約」が設定されているわけではなく、同様に人権擁護法案に「手続的制約」の旨の明記がないことが、とりわけ問題だということではありません。」との福田さまのご指摘は私の主張と噛み合っておりません。少なくともbewaad氏はそのあたりをご理解なさったうえ、さらに法解釈の問題ではなく基礎法学的観点からの問題提起とお読みいただいておられるから、「なかなか手強いテーマで結果として放置する形になっていて」と述べておられるのだろうと私は考えております。
 また、「そもそも法律というのは各法律ごとに完結しうるものではなく、関係法規と密接に絡み合った上で施行されるものだと思います。それゆえに例えば裁判官に関しては裁判所法のみで完結しうる存在なのではなく、関係法規として『裁判官弾劾法』『裁判官分限法』『裁判の迅速化に関する法律』『裁判所職員臨時措置法』などと密接に関係しながら内容の公正と運営の適正が担保されると思うわけです。」とのご主張については、全く仰るとおりですが、私はすでに、国家公務員法の適用可能性だけでなく行政不服審査法行政事件訴訟法等がどのように本法案と関連するか条文に即して具体的に論じており、「それらを勘案した上でなおも「公正さ」が担保できないということであれば、その時はじめて行政機関の「不公正さ」として問題化されるべきものではあっても、決して人権擁護法案そのものへの批判にはなり得ないのではないかと思います。」とのご指摘を今さらにして受けるとは思いもよりませんでした。人権擁護法案の運用を直接支える諸法令の中に、裁判官分限法のような規定が存在しない以上、人権擁護法案の中に「公正らしさ」を担保するための規定を求めるのは当たり前ではないでしょうか。諸法令によって担保されると仰る福田さまの論旨を検討するに、人権委員や人権擁護委員等に対する服務規程に該当するものは何かについて私の考え(国家公務員法の適用)以上には明らかにされておられないようです。人権委員や人権擁護委員、人権調整委員等についていかなる法律が服務規程として具体的に機能しうるのか明らかにされなければ、単に法律の表題名を列挙しているに過ぎず、建設的な議論に結びつくものとはなりえないと考えます。
 一例を挙げますと、列挙されておられる内の「行政相談委員法」については、総務大臣が委嘱する行政相談委員の組織や活動について定めたものであって、「人権擁護法を規律する一般法」ではありません。「行政機関への苦情を申し立てる制度が全く運用上の公平性を保つための一翼を担えないわけではない」とのお考えのようですが、このお考えには「大臣の行う処分や知事の判断が誤りであっても行政相談委員がいるからダイジョウブ」という以上の意味を見出せないのですが、果たしてこれを以って「なるほど人権擁護法は公正に機能しうるのだなあ」と信じる方々がどの程度いらっしゃるのでしょうか。
 

<「勧告」の処分性について>

 さて、「処分性」をめぐる議論については、福田さまが後日エントリーで手術されるご予定であると思い、何も申し上げてきませんでしたが、本日おとり上げになられたので、少し触れさせていただきます。
 ご存知のとおり、私は「『勧告』には処分性が認められる可能性が低いので、『公表』の前に『勧告』の妥当性を確実に争いうる旨の規定を置くべきである」との主張を維持しております。
 これについてbewaad氏は、「勧告」が処分には当たらないとの見解を明らかになさった上で、「公法関係確認訴訟」によって救済される可能性があることを指摘され、かつ「『公表』についての別案」を提示されておられます*1
 また小倉弁護士は、川神判事論文等をひきながら「また、人権擁護法案における勧告およびその内容に関して、これに従う義務がないことの確認や公表の差止めを求める訴訟を提起することが可能な場合もある」と述べておられます*2
 このお二方はいずれも「(司法による事前救済の)可能性がある」と述べておられるにとどまり、福田さまのように「人権擁護法案60条の勧告には処分性が有する」と明言なさっておられません。
 この違いはひとえに裁判例の評価が違っているからだろうと私は考えております。
 つまり、「勧告」の処分性が認められた事例としておとり上げになったものはいずれも「税関長の通知」や「国税局の督促」など、後続する手続が明らかに具体的権利義務に影響を及ぼすものである場合です。他方、「勧告」が保険医療機関指定に影響を与えるものであっても、「勧告」に処分性が認められない場合があるという事例もまた福田さまの提示なさった裁判例に含まれております。
人権擁護法案に定められた「勧告」が、どちらの部類に含まれるか考えた場合、私やbewaad氏は後者の部類に含まれる(従って処分性は認められにくい)とし、小倉弁護士は前者に含まれる余地もあるとされておられるわけです。
 で、福田さまは「完全に否定できない」と仰っておられますが、これは「前者に含まれるが、認められない場合もある」と理解してよろしいのでしょうか。
 普通に考えると「公表」のような“事実上の制裁”を具体的権利義務にかかわるものであるとした裁判例が存在しない以上、福田さまのご意見はいわゆる「原告独自の見解」と同様のものであり、裁判例の射程を見誤っておられると考えるしかないわけです。(その点、bewaad氏や小倉弁護士は真っ当な判例評価をされておられると思います。)
 司法審査を受け得る可能性が「否定できない」程度であるにもかかわらず、「公正さが間違いなく担保されている」などと仰られても困るわけで、行政争訟制度の充実なり人権擁護法案の修正なりを求めるのは当然です。「これは行政争訟制度の問題であり人権擁護法案の問題ではない」と仰るおつもりでしょうか。もしそうであるならば、それこそ他法令との関連を無視した議論です。
 もとより私の意見が無謬であるとは考えておらず、対話を通じて適宜修正を行っていくことは必要であると信じておりますが、他方いつまでも足踏みしていても仕方がないとも思っております。
 実際に法務省や人権問題懇話会も、不服申立手続を設ける必要性について認めたではありませんか。つまり原案は「司法救済による公正さの確保」の点では不安があると明らかになったわけですから、人権問題懇話会の方針が明らかになる前から「公正さは担保されている」と主張し続けていた福田さまの「処分性」理解には誤りがあったということではないでしょうか。
 とってつけたように「これらに加えて、人権問題懇話会で『是正勧告を受けた者の不服申し出手続きを設ける』という方針が固まっていることなどからも、公正さは間違いなく担保されていると考えても差し支えないと思われます。」と末尾に加えることを以って事足れりとされてしまっては、実りある議論には発展しにくいのではないかなあと感じます。今後もご指摘やご批判、ご感想は喜んで承りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

人権擁護法―私案検討メモその1

 既に和尚氏*1bewaad*2との間に議論の積み重ねがあり、今からだと後だしジャンケンになってしまいますので、私は和尚氏とbewaad氏との議論で触れられていない箇所について一応述べてみます。随時変更予定。

「第一章 総則」関係

(人権侵害の禁止)

法務省案>
第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。
 一 次に掲げる不当な差別的取扱い
  イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い
(ロ以下略)

<私案>
第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。
 一 次に掲げる差別的取扱い
  イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等のみを理由としてする不合理な差別的取扱い
(ロ以下、同様に変更)
3 前二項は、他の法律に特別の定めがある場合には適用しない

 「差別的属性を有する者に対する差別だけでなく、差別的属性を“有しない”者に対する差別(いわゆる「逆差別」)をも含む不合理な差別を禁止すること」「人種等に基づいた差別的取り扱い(たとえば年金給付、雇用促進など)を行う場合には特別の立法を行う必要があるべきこと」という意図を明確にするために、このような表現にしてみました。例えば採用試験において、被差別属性を有しない者が、採用された被差別属性を有する者よりも優秀な成績であったにもかかわらず不採用となった場合においても、差別的取り扱いにあたるということを明確にするため、このような書きぶりになった次第です。(本来、もとの法案の規定によっても「逆差別」は禁止されるはずですが、あえて。)

「第二章 人権委員会」関係

(委員長及び委員の任命)

法務省案>
第九条 委員長及び委員は、人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命ずる。
2 前項の任命に当たっては、委員長及び委員のうち、男女のいずれか一方の数が二名未満とならないよう努めるものとする。
3 委員長又は委員の任期が満了し、又は欠員を生じた場合において、国会の閉会又は衆議院の解散のため両議院の同意を得ることができないときは、内閣総理大臣は、第一項の規定にかかわらず、同項に定める資格を有する者のうちから、委員長又は委員を任命することができる。
4 前項の場合においては、任命後最初の国会において両議院の事後の承認を得なければならない。

<私案>
第九条 委員長及び委員は、人格が高潔で人権に関して高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命ずる。
2 (削除)
2・3(現3・4)略
4 両議院は、人権委員の任命を同意するにあたっては、公聴会を開かなければならない。

 男女比に関する規定は除くべきです。人権として認められるべき価値というのは「その人と同じ属性(例えば女性)でなければわからない」ものではなく、「立場の異なる者でも共感しうるもの」でなければならないと考えるからです。例えば黒人差別撤廃問題について、黒人自身が抵抗の声をあげたことが第一に評価されるのは当然ながら、それだけでなく黒人の抱く被害感情を(それこそ人格高潔な)白人が共感し広く連帯したからこそ、黒人固有の問題から人権という普遍的価値の問題へと昇華させることに成功し、(少なくとも法令上は)黒人差別の撤廃が実現できたのではないかと私は考えています。
 したがって、人権委員会が男女同数でなければならないという発想そのものが「人間の価値が生来の属性に縛られる」という差別思想を追認しているようで、人権擁護法の趣旨にそぐわないように感じます。
 委員任命の同意の際には国会は公聴会を開き委員の識見等について審議する旨規定をおいてもよいのではないかと。これは国会法五十一条二項の方を改正することで対応するのが本筋なのでしょうが、あまりにも形骸化している国会同意の実質化を図るための規定を置くことは人権委員会の中立公正を担保するために必要であると考えます。

cf. 
国会法第五十一条 委員会は、一般的関心及び目的を有する重要な案件について、公聴会を開き、真に利害関係を有する者又は学識経験者等から意見を聴くことができる。 
2 総予算及び重要な歳入法案については、前項の公聴会を開かなければならない。但し、すでに公聴会を開いた案件と同一の内容のものについては、この限りでない。

「第四章 人権救済手続(第二款 調停及び仲裁)」関係

 まず、仲裁手続は不要で、調停手続のみでよいと考えます。
 仲裁とは、仲裁人の判断には服するということを双方が合意した上で開始される手続ですが、この手続は仲裁人(本法案の場合は人権調整委員)の中立性の確保が最大のポイントです。理想的なのは、双方当事者が吟味の上で仲裁人を選任するというものですが、その場合は、仲裁人候補者の属性や過去の判断傾向などが双方当事者に開示されていなければ、双方納得できる人選ができません。
 調停ならば、調停案を拒否するという選択権を双方留保した上で手続に臨めますので、双方当事者にとってなじみやすい手続であると考えます。

(申請)

法務省案>
第四十六条 特別人権侵害による被害について、当事者の一方又は双方は、人権委員会に対し、調停又は仲裁の申請をすることができる。
2 当事者の一方からする仲裁の申請は、この法律の規定による仲裁に付する旨の合意に基づくものでなければならない。

<私案>
第四十六条 特別人権侵害に係る事件について、当事者は人権委員会に人権侵害調停の申立てをすることができる。
2 人権委員会は、人権侵害調停の申立てが不適法であると認めるときは、決定で、その申立てを却下しなければならない。
3 調停の申立がなされた後は、事件当事者及びその関係者は相手方の私生活もしくは業務の平穏を害するような言動により、相手方を困惑させてはならない

 調停は、訴えが不適法なものでない限り、どちらか一方当事者の申立てにより調停手続を開始しなければならないものとします。
 調停手続が行われている間は調停外における私的な交渉を制限できることを明記する必要があると考え、このような規定を置くことを考えました。
 調停外において相手方の生活の平穏を害するような私的交渉を行うことに対し直接的に罰則を設けることは困難ですが(貸金業法では違反者に対し業務停止などの処分を行う旨規定していますが、これは貸金業が免許事業であることを前提としているからです)、そのような私的交渉を正当な権利行使とは認めないと法文上明言することによって、「エセ同和」「糾弾」が恐喝、脅迫などに当たるとして摘発されやすくなるのではないかと考えます。

(職権調停)

法務省案>
第四十七条 人権委員会は、相当と認めるときは、職権で、特別人権侵害に係る事件を調停に付することができる。

<私案>
第四十七条 人権委員会は、第四十四条に基づく調査を行った結果相当と認めるときは、職権で、特別人権侵害に係る事件を調停に付するものとする。
但し、第四十二条第三号に該当する虐待が行われた疑いがある場合については調停に付することなく直ちに官公署に通告するものとする

 特別調査を行った上、特別人権侵害がおこなわれている疑いが認められる場合、いきなり勧告をおこなうのではなく、まず調停を試み、調停が不調に終わってから訴訟手続に移行することの通知を行うほうが当事者による弁明の機会を確保する意味からも妥当であると考え(調停前置)、このように書きました。なお、児童虐待など緊急性を要する事案については、調停を試みるまでもなく警察や児童相談所、婦人相談所による対応(一時保護など)が必要であることから、調停によらず官公署への通告を行うこととしました。

(勧告及び勧告の公表)

法務省案>
第六十条 人権委員会は、特別人権侵害が現に行われ、又は行われたと認める場合において、当該特別人権侵害による被害の救済又は予防を図るため必要があると認めるときは、当該行為をした者に対し、理由を付して、当該行為をやめるべきこと又は当該行為若しくはこれと同様の行為を将来行わないことその他被害の救済又は予防に必要な措置を執るべきことを勧告することができる。
2 人権委員会は、前項の規定による勧告をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告の対象となる者の意見を聴かなければならない。
3 人権委員会は、第一項の規定による勧告をしたときは、速やかにその旨を当該勧告に係る特別人権侵害の被害者に通知しなければならない。

第六十一条 人権委員会は、前条第一項の規定による勧告をした場合において、当該勧告を受けた者がこれに従わないときは、その旨及び当該勧告の内容を公表することができる。
2 人権委員会は、前項の規定による公表をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告に係る特別人権侵害の被害者及び当該公表の対象となる者の意見を聴かなければならない。

<私案>
第六十条 人権委員会は、特別人権侵害に係る調停案が受諾されなかった場合において、なお当該特別人権侵害による被害の救済又は予防を図るため必要があると認めるときは、当事者に対し、当該特別人権侵害に関する請求に係る訴訟に参加する旨通知することができる。
2 (削除)
2(現3略)
第六十一条
 (削除) 

 調停委員会による調停案の提示は、本法案における勧告と同様の内容となると考えられるので、調停案が受け入れられず、かつ人権委員会が調停に提出された資料や双方の主張を吟味した上で被害救済又は予防が必要であると認めたときは、当事者に対して、人権委員会が被害救済又は予防を目的として訴訟参加する予定であることを通知すれば足りると考えます。
 また、どうせ公開の法廷で争われるというのであれば、公表する必要はありません。社会的制裁を背景に訴訟の場でことの黒白を争うことを断念させることを企図する公表など、人権紛争の処理に公的ルールを導入しようという本法案の趣旨に反するものです。

(資料の閲覧及び謄抄本の交付)

法務省案>
第六十二条 人権委員会は、第六十条第一項の規定による通知をした場合において、当該勧告に係る特別人権侵害の被害者若しくはその法定代理人又はこれらの者から委託を受けた弁護士から、人権委員会保有する当該特別人権侵害に関する資料の閲覧又は謄本若しくは抄本の交付の申出があるときは、当該被害者の権利の行使のため必要があると認める場合その他正当な理由がある場合であって、関係者の権利利益その他の事情を考慮して相当と認めるときは、申出をした者にその閲覧をさせ、又はその謄本若しくは抄本を交付することができる。
(2・3略)

<私案>
第六十二条 人権委員会は、人権侵害調停の当事者であった者若しくはその法定代理人又はこれらの者から委託を受けた弁護士から、人権委員会保有する当該特別人権侵害に関する資料の閲覧又は謄本若しくは抄本の交付の申出があるときは、当該特別人権侵害に関する請求に係る訴訟のため必要があると認める場合であって、関係者の権利利益その他の事情を考慮して相当と認めるときは、申出をした者にその閲覧をさせ、又はその謄本若しくは抄本を交付することができる。
(2・3略)

 人権侵害調停が不調に終わったときは、訴訟手続に移行するか私的交渉による解決を目指すか(それとも解決をあきらめるか)ですが、訴訟に移行する際には、人権委員会の収集した資料や調停で提出された証拠等を当事者が用いることが出来るものとしたものです。なお、法務省案では「被害者による閲覧謄写」が先に行われることが前提ですが、相手方が債務不存在の確認を求める訴えを提起する場合なども考えられますので、当事者のうちどちらが先に資料の閲覧謄写を請求してもよいとしました。なお、閲覧謄写を認める理由を訴訟提起に限ったのは、調停を前置しているため、民事調停等を想定する必要はなかろうと考えたからです。

 (差別助長行為等の停止の勧告等)

法務省案>
第六十四条 人権委員会は、第四十三条に規定する行為が現に行われ、又は行われたと認めるときは、当該行為をした者に対し、理由を付して、当該行為をやめるべきこと又は当該行為若しくはこれと同様の行為を将来行わないことを勧告することができる。
2 前項の勧告については、第六十条第二項及び第六十一条の規定を準用する。

<私案>
第六十四条 人権委員会は、第四十三条に規定する行為が現に行われ、又は行われたと認めるときは、当該行為をした者に対し、理由を付して、当該行為をやめるべきこと又は当該行為若しくはこれと同様の行為を将来行わないことを勧告することができる。
2 人権委員会は、前項の規定による勧告をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告の対象となる者の意見を聴かなければならない。

 第四十三条(不特定多数に向けて行う差別助長行為)は具体的被害者がまだ存在せず、調停を行う余地がないので、調査に基づく勧告を行う前に聴聞の機会を設けることとします。

和尚氏―bewaad氏間の議論で触れられた箇所について

ほぼ異論はありませんので、簡単に。

「第二章 人権委員会」関係

 第十四条(会議)については、第十一条第二項の規定による認定以外は単純過半数でよいのではないかと考えます。

「第四章 人権救済手続」関係

 第四十四条の特別調査は、内閣総理大臣の承認をとる必要はないでしょう。内閣総理大臣の承認をとることまで要求するのなら、人権委員会を行政委員会として設置する意味がないですし(単に内閣府の業務とすればよい)、特別調査よりもはるかに強制力の大きい逮捕状や捜索差押許可状が総理よりもはるかにありふれている簡易裁判所判事によって発布されていることを考えてもバランスが取れません。

取り上げていない事項について

「差別助長行為等の差止請求訴訟」についてはまだ検討が済んでいませんので、後日に。
「人権調整委員(=調停委員)」と、人権委員会事務局職員の資格(例えば児童相談所における「児童福祉司」のような)についても、まだ未検討です。これは難しいです。

おまけ1:“強調”を使ってみました。“フォント変更”や“強調”に頼りすぎると、文章力がますます低下すると思い控えてきたのですが、使ってみるとやはり読みやすいですね。
おまけ2:法文を書くのって、難しいですね。自らの論理性のなさを思い知らされます。

法は誰のものか

<はじめに>

 いつも拝見しているブログに「いい国作ろう!『怒りのブログ』」(まさくに氏)*1があります。新聞報道をベースに、主として行政の抱える病理について日々詳しく取り上げておられるのですが、その中で触発されるところがありましたので、少し書いてみたいと思います。

 テレビの大岡越前は、実定法よりも自然法に正義の重点があるような感じ(よく判りませんが)で、”大岡裁き”というのは杓子定規ではない、良心を尊重した法の適用をするので多くの人心に共感をもたらすのではないでしょうか。権力を有する者に対しても怯むことなく制裁を与える一方で、弱者のやむなき事情などを斟酌することも、正義の顕れではなかろうかと思うのです。行政府の法解釈や運用の際に、まさか「大岡裁き」を求める訳にはまいりませんが、権限行使の立場にある人は、心の内にある正義―良心でも公正さでもいいんですが―に従って解釈・運用を行って欲しいのです。そういう志があれば、大きく誤ることも少ないだろうし、恣意的運用と非難されることも少ないのではないか、と考えております。
(“いい国作ろう!「怒りのブログ」”2005年4月5日「法と正義9」より抜粋)
 やはり、法の精神、立法趣旨というのは私のような者には理解できませんね。私は今まで法学とか法律とかを勉強したことがないので、基本的な理解が不足しています(高校の時に習った憲法くらいですね、笑)。法とは一体何なのか、といつも感じてしまいます。法は何人にも平等なんかではありません、少なくとも私はそう思っています。法の論理がどんなに正しくても、法は「正義」そのものでもありません。「正義」は人間の心の中にしかないのです。法には正義が宿ったりはしないのです。
(“いい国作ろう!「怒りのブログ」”2005年4月2日「人権擁護法はどうなるか5」より抜粋)

 法と難しくて厄介な代物です。私もbewaad氏とのやり取りでは氏にコテンパンに伸されてしまいました。象徴的なのは次のくだりです。

 これは法学のいやらしいところなのですが、法律用語は日常生活で用いられる言葉と完全には置き換えは不可能です(そうでなければ弁護士の存在意義がなくなってしまいますが(笑))。an_accuesdさんのご意見は立法論・政策論として価値のあるものだと思いますが、解釈論としてはとり得ない可能性が高いです。
(“Bewaad Institute @Kasumigaseki” 2005年3月19日「人権擁護法反対論批判リジョインダー編その3」*2より抜粋)

 「法律は法律家の独占物である」ということは、法律家(官僚や法曹)と非法律家(私やまさくに氏や、その他の素人)との間で共有された観念であるように思われます。人権擁護法案をめぐる議論において“デスノート風”や“まとめ”が(良きにつけ悪しきにつけ)大きな役割を果たしたことも、「素人が安易に法について解釈できないし、解釈しなくてもよいのだ」という観念が働いた結果であると言って差し支えないでしょう*3
 しかし、中には法を自らの道具として使いこなそうとしている素人も存在します。

<“市民オンブズマン団体”による法利用>

 「大阪市役所『見張り番』」というグループがあります。彼らはいわゆる“市民オンブズマン団体”で*4 、過去15年にわたり大阪市の乱脈行政を、情報公開条例と住民監査請求を武器に指摘し続けてきました。
 彼らの政治的背景などについては触れませんが(一言だけ言うと、彼(女)らとお話してみる限り、既成政党の影響はあまり受けてはいないように思われます)、私が彼(女)らに着目しているところは、「弁護士に頼らずに済むようになろう」ということを目標としているところです(法的能力の垂直的伝播)。
 2000年8月に東京で開催された「第7回 全国市民オンブズマン大会」において活動報告を行ったあるメンバーは、「情報公開訴訟などはそれほど難しいものではなく、まったくの素人であっても5回もやれば要領がわかってくるから、弁護士に頼る必要はない」という旨の発言を行い、会場中から拍手を浴びていましたが、これは決して誇張や強がりではなく、実際に多数の住民が情報公開請求や情報公開訴訟を法律家に頼らずに行っているのです。もちろん、その活動において弁護士の関与が大きな比重を占めてきたことは事実ですが、彼らはノウハウを弁護士から吸収し、経験を積み重ねた結果、ほぼ独力で住民監査請求や住民訴訟を行えるまでになっていったのです。
 もう一つ触れておくべきことは、同じ目的の住民団体が情報を交換しあうことにより、“市民オンブズマン団体”全体の法的能力の向上を目指しているということです(法的能力の水平的伝播)。
 前述した「全国市民オンブズマン大会」は毎年開催されているのですが、そこでは各地の“市民オンブズマン団体”の経験が(失敗談も含めて)語られることで情報の共有が図られています。また、各地で提起されている情報公開訴訟や住民訴訟の訴状や準備書面などが資料として配布され、新たに同種訴訟を提起する際の参考資料として活用されているのです。

<法に頼る素人とはどういう人々か>

 このような“市民オンブズマン団体”のような素人による「法の道具化」は、いわゆる“プロ市民”特有の特徴であり一般化できないと考える方々もいるでしょう。しかし例えば金融業者は専門家(弁護士や司法書士)に頼らず独力で支払督促手続や少額訴訟手続を繰り返し利用しております。他にも建設業者は建設業法関連を、食品業者は食品衛生法関連を、また各企業の総務担当者は商法や労働関係法規をそれぞれ使いこなしているわけでして、必要があれば人々は(限定された領域ながら)法を「道具化」し自らのものとしているのです。
 これについては、「あくまで職業人としての要請があるからであって、生活者として法に習熟する必要に迫られることは通常あまりないのではないか」という疑問が生じます。
 では、なぜ“市民オンブズマン団体”は、自らの職業的要請を離れて法を道具として使いこなそうとするのでしょうか*5
 彼(彼女)らがよく利用する“武器”である情報公開条例を例に挙げて考えてみます。
 全国に先駆けて情報公開条例を制定したのは山形県金山町でした(1982年)。条例制定後、情報公開は建設業者らが営業資料を取得するために利用しているのがほとんどで、情報公開審査会への不服申立や情報公開訴訟は皆無です。
 これに対し、金山町から半年あまり遅れて情報公開条例を制定した神奈川県(都道府県レベルでは初)では、制定後2003年までの間に提起された不服申立は278件、情報公開訴訟は3件です*6
 一般的に、自治体の人口規模が大きくなればなるほど、平均的な住民と自治体との間の心理的距離は広がっていき、住民がインフォーマルなルートを通じて自治体の内部情報を入手したり自治体の意思決定に影響を及ぼしたりすることが困難になっていくと考えられます。その結果、行政内部の情報を求めたり行政権限の発動を求めたりする手段として、法によって制度化されたフォーマルなルートを利用する必要性が高まると考えても差し支えないでしょう。また、同一の自治体においても、動員できる社会資源(加入している地域団体の影響力、自治体職員の知人の有無、議員の助力など)の格差によって住民と自治体との間の心理的距離に違いが生じ、心理的距離を遠く感じている者はフォーマルなルート(法)を利用する頻度が高くなるということも言えるでしょう。
 心理的距離と法利用の関係は、相手方が行政権力でなく私人間であっても同様で、相手方との心理的距離が遠いほど、法利用の頻度は高くなるわけです。
 つまり、ありていに言えば「議員のコネが使える者はコネと法律のどちらを選んでもよいが、議員のコネを持たない者は法律しか利用できない」ということです。
 ところで、彼(彼女)らによる法の道具化は、法を彼らの独占物にしようと企図するものではなくむしろより多くの人々に利用可能なものにしようとするものであるということです。彼(彼女)らが法を道具化することにより、法を「法律家に報酬を払わない限り利用困難なもの」から、「誰もが低廉なコストで利用できるもの」となるのですから。

<法を道具化する営み>

 「法は何人にも平等なんかではありません」というまさくに氏のご指摘はたしかにその通りです。しかし法を道具化し、法利用のハードルを引き下げようとする試みを素人が止めてしまえば、いつまでも官僚と法曹による法の独占を突き崩すことも法利用の不平等を縮小させることも出来ませんし、またそのような不断の営みを実際に多くの人々が繰り返しているからこそ、恣意的な法運用が(少しずつですが)是正されているのだろう、と私は考えています。
 そのようなわけで私は、「法による正義」とは「大岡越前」や「水戸黄門」に代表される“良き為政者”によって担保されるものというより、法適用や政策決定がより多くの人々による批判的検討にさらされうる制度*7を設けるとともに、その制度を素人が活用することによって担保されるものであると考えている次第です。

*1:http://blog.goo.ne.jp/critic11110

*2:http://bewaad.com/20050319.html#p01

*3:bewaad氏は、あくまでも行われている議論の性質(政策論ではなく解釈論であること)を維持することによって議論が錯綜するのを防ごうとなさっていたのであって、決して相手方を議論の舞台から退場させることを意図していたものではないことを、念のため申し上げておきます。

*4:彼(彼女)らは私的な社会運動団体であり、いくつかの自治体に設置されている公的な“オンブズマン(オンブズパーソン)”ではありません。

*5:念のため申し上げておきますが、各地に存在する市民オンブズマン団体に関与している人々の中で、当該運動に専従して生計を維持している人はほとんどいないようです。NPO法人「情報公開クリアリングハウス」には、専従職員の方がいらっしゃるかも知れませんが、私は確認しておりません。

*6:神奈川県「2003年度情報公開制度の運用状況」およびhttp://www.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a012/jyouhou96.htmlより

*7:具体的には、情報公開制度や住民訴訟制度、検察審査会制度などといった種々の法制度のことを指しています。

行政委員会委員等の任命に対する議会同意について

これは別に人権擁護法案の問題ではなく議会のあり方の問題なのですが、一応参考までに。

[018/034] 154 - 衆 - 議院運営委員会 - 47号 (平成14年06月20日
○鳩山委員長 次に、国家公務員等任命につき同意を求めるの件についてでありますが、検査官、情報公開審査会委員、預金保険機構理事長及び同理事、公正取引委員会委員長及び同委員、公害等調整委員会委員長及び同委員、日本放送協会経営委員会委員、中央更生保護審査会委員長、労働保険審査会委員、土地鑑定委員会委員に、お手元の印刷物にあります諸君を任命するについて、内閣から本院の同意を求めてまいっております。
一、国家公務員等任命につき同意を求めるの件
  検査官
   大塚宗春君 金子晃君七、三〇定年退官につきその後任
  情報公開審査会委員
   高木佳子君 住田裕子君辞職予定につきその後任
   新村正人君
   園マリ君
   藤原静雄君
  預金保険機構理事長及び同理事
   理事長 松田昇君 六、二〇任期満了につき再任
   理 事 渡辺達郎君 花野昭男君六、二五任期満了につきその後任
  公正取引委員会委員長及び同委員
   委員長 竹島一彦君 根來泰周君七、三〇定年退官につきその後任及び九、二三任期満了につき再任
   委 員 三谷紘君 糸田省吾君六、三〇任期満了につきその後任
  公害等調整委員会委員長及び同委員
   委員長 加藤和夫君 川嵜義徳君六、三〇任期満了につきその後任
   委 員 堺宣道君 長崎護君六、三〇任期満了につきその後任
       平石次郎君 六、三〇任期満了につき再任
  日本放送協会経営委員会委員
   武田國男君 鳥井信一郎君四、一〇辞職につきその後任
  中央更生保護審査会委員長
   松浦恂君 増井清彦君六、二六任期満了につきその後任
  労働保険審査会委員
   中島芙美子君 松本康子君六、三〇任期満了につきその後任
  土地鑑定委員会委員
   黒川弘君 七、四任期満了につき再任
   安藝哲郎君 七、四任期満了につき再任
   増田修造君 佐藤實君七、四任期満了につきその後任
   中島康典君 清水幹雄君一三、一二、一九死去につきその後任
   瀬古美喜君 七、四任期満了につき再任
   高山朋子君 七、四任期満了につき再任
   能見善久君 平井宜雄君七、四任期満了につきその後任

○谷事務総長 まず最初に、動議により、厚生労働委員長森英介君解任決議案を上程いたします。民主党山井和則さんが趣旨弁明を行います。次いで二人の方々からそれぞれ討論が行われますが、順序は印刷物のとおりであります。自由民主党公明党及び保守党が反対でございます。
 次に、国家公務員等任命につき同意を求めるの件についてお諮りいたします。各会派の態度はお手元の印刷物のとおりであります。
 次に、日程第一は委員長提出の議案でありますので、議長から委員会の審査を省略することをお諮りいたします。次いで久保国土交通委員長の趣旨弁明がございまして、全会一致であります。
 本件の議事が終わりましたところで、動議により、残余の日程は延期して、散会することになります。
 本日の議事は、以上でございます。

 各会派の態度
 一、(全会一致)
  検査官:大塚 宗春君
  情報公開審査会委員:高木佳子君 園マリ君
  日本放送協会経営委員会委員: 武田國男君
  中央更生保護審査会委員長:松浦恂君
  労働保険審査会委員:中島芙美子君
  土地鑑定委員会委員:増田修造君 中島康典君 瀬古美喜君 高山朋子君 能見善久君
 二、(反対 民主、社民)
  情報公開審査会委員:新村正人君
 三、(反対 共産)
  情報公開審査会委員:藤原静雄君
  預金保険機構理事長:松田昇君
  土地鑑定委員会委員:安藝哲郎君
 四、(反対 民主、自由、共産、社民)
  預金保険機構理事: 渡辺達郎君
  公正取引委員会委員長(再任を含む):竹島一彦君
 五、(反対 共産、社民)
  公正取引委員会委員:三谷紘君
  土地鑑定委員会委員:黒川弘君
 六、(反対 民主、共産)
  公害等調整委員会委員長:加藤和夫君
 七、(反対 民主)
  公害等調整委員会委員:堺宣道君 平石次郎君
[017/034] 154 - 衆 - 本会議 - 43号 (平成14年06月20日
○議長(綿貫民輔君) お諮りいたします。
 内閣から、
 検査官
 情報公開審査会委員
 預金保険機構理事長及び同理事
 公正取引委員会委員長及び同委員
 公害等調整委員会委員長及び同委員
 日本放送協会経営委員会委員
 中央更生保護審査会委員長
 労働保険審査会委員
及び
 土地鑑定委員会委員に
次の諸君を任命することについて、それぞれ本院の同意を得たいとの申し出があります。
 内閣からの申し出中、
 まず、
 検査官に大塚宗春君を、
 情報公開審査会委員に高木佳子君、園マリ君及び藤原静雄君を、
 預金保険機構理事長に松田昇君を、
 公正取引委員会委員に三谷紘君を、
 日本放送協会経営委員会委員に武田國男君を、
 中央更生保護審査会委員長に松浦恂君を、
 労働保険審査会委員に中島芙美子君を、
 土地鑑定委員会委員に黒川弘君、安藝哲郎君、増田修造君、中島康典君、瀬古美喜君、高山朋子君及び能見善久君を
任命することについて、申し出のとおり同意を与えるに御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(綿貫民輔君) 御異議なしと認めます。よって、いずれも同意を与えることに決まりました。
 次に、
 情報公開審査会委員に新村正人君を、
 預金保険機構理事に渡辺達郎君を、
 公正取引委員会委員長(再任を含む)に竹島一彦君を、
 公害等調整委員会委員長に加藤和夫君を、
 同委員に堺宣道君及び平石次郎君を
任命することについて、申し出のとおり同意を与えるに賛成の諸君の起立を求めます。
    〔賛成者起立〕

 え〜っと。
 国会会議録を見る限り、各候補者について、なぜ内閣が選んだのかも判らなければ、各会派がどういう理由で賛否の態度を決定したのかも判りません。これでは議会の同意が委員の“公正らしさ”を担保していると信じることはできません。
 現状がこんなのだから、いくら法務省や法案推進派から「議会の同意に基づいて内閣が任命するのですから、委員の公正中立性は保たれます」と教えられたところで、頭では理解できても納得はできないのです。
 行政委員会委員なんて、どっちみち官僚の順送りポストだったり学者の箔付けポストだったりするのでしょうが、せめて委員候補者を国会に呼んで、委員就任が予定されている行政委員会が行っている直近の政策に対する見解くらいは聴き、その行政委員会の担当政策に関連する特定の団体と候補者との間に深いつながりがないことなどを確認した上で「同意した」としてもらわないことには、行政委員会委員の“公正らしさ”を説得力あるものにはできないでしょう。
 これは運用の問題、しかも人権擁護法ではなく国会運営のありかたという、より一般的な制度運用の問題ですので、人権擁護法案批判としては外れた議論であることはよくわかっています。
 しかしまあ、“公正らしさ”を担保できていないことがわかりきっている“両議院の同意”制度をわざわざ採用するくらいなら、“公正性”の確保についてそれなりに実績のある司法府の機能を拡充するほうがよりましであるように思いますが、どうなのでしょう。(これはもはや難癖の部類に入ってしまうのかも知れませんが。)

人権擁護法案検討メモ―番外編その8

 ちょいとバタバタしていたのと、考えが煮詰まっていたのとで、しばらくエントリーを更新することが出来ませんでした。
 考えが煮詰まっていたというのは、「“行政委員会が信用できない”と言っているのに、なんで“司法は信用できる”と言えてしまうのか?」という問題に引っかかっていたからです。

<「労働審判法」を手がかりに>

 このことを考えるために、例によって他の制度を見ようとネット上をウロウロしておりますと、「労働審判*1」というのが見つかりましたので、これを手がかりに少し話を進めてみたいと思います。
 従来(といっても2002年以降ですが)個々の労働者と事業主との労働紛争(解雇や配置転換、賃下げなどをめぐる紛争)については、「個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律」に基づいて各都道府県労働局の助言指導や紛争調整委員会によるあっせんが行われていたのですが、労働局の助言指導に強制力がなく、また紛争調整委員会のあっせん手続もどちらか一方が応じなければ打ち切りになるため、紛争解決に対して期待されたほどの効果を発揮することが出来なかったようです。
 これを踏まえ、新たな個別労働紛争処理制度を創設するために制定されたのが「労働審判法」です(2004年5月12日公布、施行は2006年)。
 「労働審判制度」は、次のような特徴を有しています。

  1. 労働審判地方裁判所において行われること。(1条)
  2. 審判を主宰する合議体が、裁判官である労働審判官1名、労働関係に関する専門的な知識経験を有する労働審判員2名で組織されていること。(7条〜10条)
  3. 一方当事者からの申立てにより手続が開始され、相手方に応答義務を課していること。(5条、14条、17条、21条、31条、32条
  4. 原則として3回以内の期日で審理を終結すると定められていること。(15条2項)
  5. 労働審判は裁判上の和解と同様の効力をもつとされるとともに、異議申立てを行った場合は地方裁判所に訴えの提起を行ったものとみなされること。(21条、22条)

<“応訴強制”の獲得に向かうADR>

 この法律を見てまず考えたことは、
 「やはり“応訴強制”がなくては、紛争処理機関は充分に機能を果たせないのかなあ」
 ということです。以前のエントリーでも触れましたが*2男女雇用機会均等法が平成9年に改正され、一方当事者の申立てにより調停が開始できるようになったことも考え合わせると、「応じようが拒否しようが構いませんよ」という紛争処理機関というのは、こと権利紛争においては有効に機能しないのではないでしょうか。
 おそらくですが、本法案が成立した後、時を経ずして双方当事者の合意がなくても開始できる紛争処理手続(“人権審判”、みたいな)を創設するような法改正が議論されるでしょう。でも、「それって訴訟じゃないの?別に制度を設ける必要がどこにあるのですか?」と思ってしまうのです。
 そんなわけで、なんでわざわざ人権侵害調停/仲裁のような、実効性も利用頻度も低い(と見積もらざるを得ない)制度を設けようとするのか、やはりよくわかりません。

<“公正さ”と“公正らしさ”>

 さて、次に考えたことというのは、
 「審判者の“公正”とは、何なのか」
 ということです。
 (少なくとも)日本においては、裁判官に対して“公正さ”とともに“公正らしさ”をも求める傾向があるようです。
“公正さ”というのは、「審判者がどちらか一方に偏った手続進行を行わず決められたルール(訴訟法や訴訟規則など)に則った手続進行を行うこと」と、「適時適切に提出された証拠に基づいて合理的に判断を下すこと」によって実現されるものと考えてよいと思います。従って“公正さ”は、審理手続が始まってから問題となるものです。
 これに対し“公正らしさ”というのは、かつて最高裁長官であった石田和外氏*3が在任中に述べたとされる「裁判は公正であるだけでなく、公正に見えなければいけない」という言葉に凝縮されていると思うのですが、要は「審理手続が開始される前に“偏った見解を抱いていないだろう”と推測されること」を指しているものと思われます。
 この“公正らしさ”について、いわゆる「寺西判事補戒告事件」で最高裁

 裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべきことが要請される。司法に対する国民の信頼は、具体的な裁判の内容の公正、裁判運営の適正はもとより当然のこととして、外見的にも中立・公正な裁判官の態度によって支えられるからである。したがって、裁判官は、いかなる勢力からも影響を受けることがあってはならず、とりわけ政治的な勢力との間には一線を画さなければならない。そのような要請は、司法の使命、本質から当然に導かれるところであり、現行憲法下における我が国の裁判官は、違憲立法審査権を有し、法令や処分の憲法適合性を審査することができ、また、行政事件や国家賠償請求事件などを取り扱い、立法府や行政府の行為の適否を判断する権限を有しているのであるから、特にその要請が強いというべきである。職務を離れた私人としての行為であっても、裁判官が政治的な勢力にくみする行動に及ぶときは、当該裁判官に中立・公正な裁判を期待することはできないと国民から見られるのは、避けられないところである。身分を保障され政治的責任を負わない裁判官が政治の方向に影響を与えるような行動に及ぶことは、右のような意味において裁判の存立する基礎を崩し、裁判官の中立・公正に対する国民の信頼を揺るがすばかりでなく、立法権や行政権に対する不当な干渉、侵害にもつながることになるということができる。
 これらのことからすると、裁判所法五二条一号が裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止しているのは、裁判官の独立及び中立・公正を確保し、裁判に対する国民の信頼を維持するとともに、三権分立主義の下における司法と立法、行政とのあるべき関係を規律することにその目的があるものと解される。(平成10年(分ク)第1号平成10年12月1日大法廷決定*4より抜粋)

 これを踏まえたうえで、労働審判員の選任についての以下の記述を読んでみます。

 労働審判制度は、新しい制度だけに、課題もいろいろ指摘されています。
 労働審判員は、全国で労働側、使用者側それぞれ五百人ずつ、あわせて千人の選出が見込まれています。
 労働側の推薦する五百人の労働審判員は、労働団体が推薦します。連合枠四百三十四人、全労連枠五十一人、全労協その他十五人の枠で人選がすすんでいます。ふさわしい経験と見識のある人を推薦し、十分な研修がおこなわれる必要があります。(2004年11月28日(日)「しんぶん赤旗http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-11-28/05_01.htmlより抜粋)

 労働審判員は人権擁護法案でいうところの人権調整委員にあたる人々になるわけですが、もう少し広く、人権委員も含めて考えてもよいと思います。
 労働紛争の分野においては、例えば労働委員会が労働者側委員、使用者側委員、公益委員によって構成されているように、利害対立の構図をそのまま合議体の構成に反映させることを当然と考えているふしがあるようです(おそらくドイツの労働裁判所あたりを意識しているものと思われます)。
 でも、このやり方が果たして労働委員会労働審判の合議体の“公正らしさ”を担保するものであると見做してよいのでしょうか。
 労働審判員のうち誰に当たるかは当事者の意思が及ぶところではありません(当事者と具体的利害関係があることが明らかな場合を除く)ので、仮に全労連系と近い立場に立っている当事者(労働者)が連合枠から選出された労働審判員に当たったとしても文句を言うことはできません。文句は言えませんが、労働審判員の“公正らしさ”には疑念を抱くでしょう。
また、労働審判員が当事者(労働者)の選出母体と同じ組織に属していると判れば、やはり相手方当事者(事業主)は労働審判員の“公正らしさ”を疑うかもしれません。

<結論>

 結局のところ、裁判官や調停委員などが中立的第三者であるためには、“局外者”であることが重要なのであって、社会内に存在する利害の縮図を合議体の構成にそのまま反映させようとすることは、そもそも不可能であるだけでなく、制度の“公正らしさ”をも損なうことになるように思われます。
 いわゆる「学識経験者」、とりわけ「人権問題の専門家」というのは、そう呼ばれている時点で何らかのカラーに染まっているのですから、およそ“公正らしさ”とは対極にいるのではないでしょうか。「人権問題の専門家」によって構成されているからといって人権委員会を“公正らしい”とは信じられない、いやむしろ、「人権問題の専門家」ということが特定の利害にコミットしていることを暗示しているがゆえに、私は人権委員や人権調整委員の“公正らしさ”に疑いの眼を向けざるを得ないのです*5
 労使紛争という限定された分野を扱い、雇用者と被用者という二項対立図式に単純化しやすい労働争訟制度ならいざしらず(それでも問題があると私は思っていますが)、幅広い人権侵害事象を扱うだけになおさら、「人権問題の専門家」で構成することによって人権委員会の“公正らしさ”を担保しようとするのは困難であるように思われます。(追記:「学識経験者」の“公正らしさ”を担保する“両議院の同意”制度については後述。)

 なお、審判者には“公正さ”さえ備わっていればよく、“公正らしさ”は必要がないとする意見も当然あるでしょう。しかしその場合は、厳格な手続と詳細な判決理由に表れる論理一貫性によって“公正さ”が担保されていなければなりません*6
 しかし人権擁護法案所定の諸手続は、調査着手から勧告・公表にいたるまでの一連の手続においても、調停/仲裁手続においても、強制力の弱さを理由に緩やかな手続規定を置くにとどめているのですから、制度の“公正さ”を担保できるだけの手続的制約が設定されているとは言えません。
 人権擁護法案は、どのようにして制度の“公正さ”と“公正らしさ”を根拠付けようとしているのでしょうか。

*1:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/hourei/roudousinpan.html

*2:http://d.hatena.ne.jp/an_accused/20050320

*3:「石田長官のどこが“公正らしい”ねん!」というツッコミはさておき。

*4:http://www.nsknet.or.jp/~kanamori/102.htm

*5:人権擁護委員についても同様のことが言えるかも知れません。人権委員や人権調整委員のように準司法機関の担い手として位置づけられているわけではありませんが、一般救済手続の中で紛争当事者の間に立って関係調整を行う場合もある(法案41条1項3号)のですから。

*6:司法の“公正らしさ”が曲がりなりにも信じられているのは、別に裁判官が政治的沈黙を守り続けているからではなく、厳格な手続と判決の論理一貫性によって“公正さ”を守り続けてきたという歴史の「おまけ」みたいなものだと私は思っています。といっても、その「おまけ」を手に入れるために司法府はたゆまぬ努力を続けなければならないのですが。