人権擁護法案検討メモ―雑感その2

 え〜、「民主党案(人権侵害救済法)と政府原案(人権擁護法案)なら、どっちか」というお話が出ているようですが、

「んなもん、どっちもダメだろ」

 というのが私の変わらぬスタンスでございまして。理由は今まで縷々述べてまいりました通り。
 「アレな案」と「ちょいマシな案」を並べてみせるというのが、“アジェンダ設定”なのかもなあと思う次第であります。

<来し方>

 さて、“アジェンダ設定”といえば、私が人権擁護法案について最初に書いたのが「知財高裁と人権擁護法」(2005年3月11日)なのですが、その中で私は

人権侵害というのはおそらく裁判所にとってストライクゾーンど真ん中だと思われるのですが、従来の司法救済によっては救済しきれないと言うのでしょうか。私にはそう思えませんが、もしそうであるならば、裁判制度そのものを見直す必要があるわけで、人権擁護法による調停/仲裁なんていう特別法で何とかする問題ではないと思います。なんでそうならないのか。私は法律の専門家ではありませんので、素朴にそう思います。ただまあ、法案は一つの選択だろうとも思うわけで、それはそれで別途検討していきたいと思います。

 と疑問を述べております。例えば「匿名者からの誹謗中傷について、現状の争訟制度では迅速な被害回復が図れない」という問題は、「なりすまし詐欺」に係る民事訴訟についても類似の問題が存在するわけですから、「差別問題」だけでなく、民事訴訟における調査嘱託や弁護士照会の問題なのではないか、といったような疑問です。

これをきっかけに

「人間関系のこじれである人権侵害事件においては、調停が成立する可能性がかなり低いのではないか」(3月12日)

「(本法案が成立したら)司法審査の及ばないところで“思想犯”を晒し者に出来ちゃうんじゃないの?」(3月13日)

「誰もが利用しうる制度である。しかしむやみに利用頻度の高そうな人がいそうな気もする。そういうとき、どう考えるか。」(3月14日)

「安易に「ソフトランディング」などと言う言葉を用いて調停制度を流用しようとするのではなく、訴訟のもつ「事実を確定し公に宣言する」という機能をどう活かすかという方向で制度作りを考えるべき」(3月15日)

「『人権・差別の専門家=裁定者』となることが裁定者の中立性を疑わせるのであればむしろ有害であるとさえ言えるでしょう」(3月16日)

など、現在に至るまで法務省案について疑義を唱えてきたわけですが、他方

しかしまあ、ここまで「人権アレルギー(人権団体アレルギー?)」が強いものだとは思いませんでした。自由な議論が憚られた問題だから、ネット上でその抑圧された思いが噴出したということでしょうか。それとも単に差別感情の表れに過ぎないのか。議論が盛り上がりを見せて1週間以上が経過してもなお法案の誤読に基づくデマが流布しているのは、法案がややこしいということもあるのでしょうが「そう読みたい(そして自分も反対したい)」という欲求の現われでもあるように思います。
 「人権擁護」という言葉に含まれる欺瞞に対する嫌悪、解同や総連への敵愾心、政治や行政に対する不信などといったさまざまな感情の高ぶりが法案を“誤読”させているのですから、誤読を単に指摘するだけでなく、その背景にある感情に光を当てていく必要があるのでしょう。(3月18日)

 と、反対論の主流に対して距離を感じてもおりました。
 これは、私が「新たな人権救済制度は必要ない」と考えておらず、「何らかの制度創設は必要なのではないか」と考えているからです。

在日や被差別部落問題以外で本法案が適用されうるケースについてシミュレートせよとのご希望ですが、法務省ホームページに人権擁護行政についての資料が公開されており、そこに実際の「人権侵犯事件」の状況についていくつか例示されておりますので、*1適宜ご覧ください。一例を抜粋しますと、

「視覚障害者の宿泊に際しての盲導犬の同伴拒否 − 徳島地方法務局」
 徳島県視覚障害者団体が,県内の財団法人が設置運営する施設に宿泊の予約をし,後日,宿泊予定者のうち2人が盲導犬を同伴する旨伝えたところ,施設の老朽化が進んでいること等を理由に盲導犬の同伴を拒否され,結果的に,会員ら全員が別の施設で宿泊せざるを得なかった,との報道がなされた。
 この報道に接した徳島地方法務局は,直ちに調査を開始し,その結果,施設側の行為は,真にやむを得ない理由に基づかないで盲導犬等の同伴を拒否してはならないことを定めた身体障害者補助犬法に違反し,視覚障害者の自立や社会参加を制限するとともに,その人権を侵害したものであることが認められたため,同施設の長に対し,施設の運営を通じて,障害者を含めたすべての人の人権が守られる社会の実現に向けて努力し,再び本件のような行為を行わないことを求めて書面により説示した。(説示)

 上記のような事案について、人権委員会事務局職員が施設の立ち入り検査や従業員に対する事情聴取、また予約台帳等の留め置きを行うことで、事実関係の的確な把握を行うとともに当該予約拒否が本当に施設の老朽化等による「やむを得ぬ宿泊拒否」であったかどうかを判断し当事者に助言指導(勧告)を行うということになるでしょう。在日問題について豊かな想像力を発揮されておられるのですから、その他の問題についても少しお考えになれば容易にシミュレートできるのではないでしょうか。なにしろ「実際にあった問題」なのですから。(3月26日コメント欄)

 
「新たな救済制度を必要とするような人権侵害は存在しない(既存の制度で対応可能である)」という立場の方は、法務省の設定したアジェンダではなく、「新たな制度によって救済すべき人権侵害が存在するか」というアジェンダを自ら設定し、そこで議論を展開することを選ぶでしょう。
 私は「“逆差別”の問題も含め、差別問題を解決するためには何らかの制度創設は必要である」と考えているので、法案という法務省の設定したアジェンダに乗っかった上で、法案の内容について駄文を書き連ねてきたのです。

 「たぶん糾弾は行われる」
 おそらくそうだと思います。でも、何とかして公的な解決ルートに乗せていかなくては、いつまで経っても深刻な被害は減りません。
 私は“解同”のやり口を“総会屋”と同様だと考えています。総会屋は「株主権の行使」を口実に不当な利益供与を強要しますが、堂々と株主総会で議論する覚悟があれば、不当な圧力をかなり撥ね退けることができるはずです。公的な交渉のチャネルを確保しつつ、不当な圧力による利益要求については厳しく取り締まる、という方向に社会は向かうべきですし、人権擁護法はそのように機能するものでなければならないと思います。今のままではムリですけど。(それとともに、本当に苦しんでいる人々にとっても有効な制度でなければならないのですから、そう簡単なものではないですよね。)(3月21日コメント欄)
3 調停の申立がなされた後は、事件当事者及びその関係者は相手方の私生活もしくは業務の平穏を害するような言動により、相手方を困惑させてはならない。
 
調停外において相手方の生活の平穏を害するような私的交渉を行うことに対し直接的に罰則を設けることは困難ですが(貸金業法では違反者に対し業務停止などの処分を行う旨規定していますが、これは貸金業が免許事業であることを前提としているからです)、そのような私的交渉を正当な権利行使とは認めないと法文上明言することによって、悪質な取立て行為と同様に「エセ同和」「糾弾」が恐喝、脅迫などに当たるとして摘発されやすくなるのではないかと考えます。(2005年4月7日)

 法技術自体はニュートラルなものですから、制度に対する疑問や批判を無効化する働きだけでなく、疑問や批判を制度に反映させることにも用いることができるでしょう。「人権擁護」という理念そのものには誰しも異論がないのでしょうから、“逆差別”や“糾弾”をも「人権擁護」の名の下に駆逐しうる制度設計を修正案として掲げ、もしもこのような修正に応じなければ、推進勢力を「人権擁護の名を借りた既得権保護の策謀である」と思う存分叩く、このような形で法技術を用いることも視野に入れてもよいように思うのです。「人権擁護」という錦の御旗は、推進勢力の独占物ではないはずです。

<行く末>

 与党法務部会でこれほど紛糾しているのですから、未だ本法案の必要性については国民のコンセンサスが得られるまでには至っていないのでしょう。法案提出の機が熟すまで、与党内部でも国民の間でも大いに議論が行われるべきだと思います。
 しかし「イヤなものはイヤ」と声高に叫ぶことに終始する運動は、たとえ成功(法案の白紙撤回)を勝ち取ったとしても、現状を追認するだけになりはしないでしょうか*2。もちろん、「修正などありえない、白紙撤回あるのみである」という運動方針は、強力で、かつ正しいです。正しいのですが、「運動の成功」が「差別的言動の全面的正当化」という副産物を生じさせたり、本当に救済を必要としている人々を放置したりすることにならないだろうか、というのが、私がいま一つ反対運動の主流に距離を置いてしまう理由なのです*3人権擁護法の成立が“差別利権”という名の差別構造を温存するのではないかという危惧と同様に、法案反対運動の成功が被差別者排斥の解禁につながるのではないかという危惧があるように思えるのです。これは論理的帰結ではなく、私の感情の発露です。
 単純な「法案に対する賛否」だけであればいいのです。「私は反対」、それでいい。その部分では私も連帯できます。しかし「反対の、その先」を見たとき、主流を形成している反対論になかなか共感できず、戸惑ってしまうのです。
 というわけで、まあ軟弱な意見表明としては「想像力を思いっきり羽ばたかせることは必要だけど、一応は法制度をめぐる議論なんだから、法解釈というヒモを切ることはできないよねえ」ということと、「差別利権を叩く武器にできるような法制度を提案することも、カウンターとして有効なはずだよねえ」という今までのエントリー内容と変わらない陳腐なものになってしまいました。雑感ということで勘弁していただければ幸いです。

*1:http://www.moj.go.jp/PRESS/040219-1/040219-1.html

*2:漠然と「既存の法制度や個別立法による解決を目指すべき」と述べるにとどまるものもまた、結局のところ現状を追認しているに過ぎません。解決すべき人権侵害事象の存在を認めるのであれば、具体的政策の提示とまではいかずとも、少なくとも改善の方向性を示す程度のことをして初めて、立法論として価値を持つと言えましょう。

*3:もちろんこれは、“逆差別”“差別利権”の存在に対する不満・反発によって引き起こされているのですから、生じるべくして生じていると言っても過言ではないのですが。