「公正・透明な手続を行うために1・2」(福田氏『漂泊言論』)にお答えして

 拙ブログ「人権擁護法案検討メモ―番外編その8」に、福田さまからトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

<公正性について>

 私の中でもきちんと整理できていない問題ですので申し訳ないのですが、大まかに申し上げますと、私は「公正さ」を主に訴訟法や訴訟規則など審理手続の厳格な適用によって担保されるものとし、「公正らしさ」を裁判所法を中心とする裁判官の服務規程によって担保されるものであると位置づけています。ですから「『公正さ』についてですが、“内容の公正”と“運営の適正”を担保するためには手続的制約が必要だと考えることができます。ただこれは、例えば裁判所法を見る限りにおいて、特段「手続的制約」が設定されているわけではなく、同様に人権擁護法案に「手続的制約」の旨の明記がないことが、とりわけ問題だということではありません。」との福田さまのご指摘は私の主張と噛み合っておりません。少なくともbewaad氏はそのあたりをご理解なさったうえ、さらに法解釈の問題ではなく基礎法学的観点からの問題提起とお読みいただいておられるから、「なかなか手強いテーマで結果として放置する形になっていて」と述べておられるのだろうと私は考えております。
 また、「そもそも法律というのは各法律ごとに完結しうるものではなく、関係法規と密接に絡み合った上で施行されるものだと思います。それゆえに例えば裁判官に関しては裁判所法のみで完結しうる存在なのではなく、関係法規として『裁判官弾劾法』『裁判官分限法』『裁判の迅速化に関する法律』『裁判所職員臨時措置法』などと密接に関係しながら内容の公正と運営の適正が担保されると思うわけです。」とのご主張については、全く仰るとおりですが、私はすでに、国家公務員法の適用可能性だけでなく行政不服審査法行政事件訴訟法等がどのように本法案と関連するか条文に即して具体的に論じており、「それらを勘案した上でなおも「公正さ」が担保できないということであれば、その時はじめて行政機関の「不公正さ」として問題化されるべきものではあっても、決して人権擁護法案そのものへの批判にはなり得ないのではないかと思います。」とのご指摘を今さらにして受けるとは思いもよりませんでした。人権擁護法案の運用を直接支える諸法令の中に、裁判官分限法のような規定が存在しない以上、人権擁護法案の中に「公正らしさ」を担保するための規定を求めるのは当たり前ではないでしょうか。諸法令によって担保されると仰る福田さまの論旨を検討するに、人権委員や人権擁護委員等に対する服務規程に該当するものは何かについて私の考え(国家公務員法の適用)以上には明らかにされておられないようです。人権委員や人権擁護委員、人権調整委員等についていかなる法律が服務規程として具体的に機能しうるのか明らかにされなければ、単に法律の表題名を列挙しているに過ぎず、建設的な議論に結びつくものとはなりえないと考えます。
 一例を挙げますと、列挙されておられる内の「行政相談委員法」については、総務大臣が委嘱する行政相談委員の組織や活動について定めたものであって、「人権擁護法を規律する一般法」ではありません。「行政機関への苦情を申し立てる制度が全く運用上の公平性を保つための一翼を担えないわけではない」とのお考えのようですが、このお考えには「大臣の行う処分や知事の判断が誤りであっても行政相談委員がいるからダイジョウブ」という以上の意味を見出せないのですが、果たしてこれを以って「なるほど人権擁護法は公正に機能しうるのだなあ」と信じる方々がどの程度いらっしゃるのでしょうか。
 

<「勧告」の処分性について>

 さて、「処分性」をめぐる議論については、福田さまが後日エントリーで手術されるご予定であると思い、何も申し上げてきませんでしたが、本日おとり上げになられたので、少し触れさせていただきます。
 ご存知のとおり、私は「『勧告』には処分性が認められる可能性が低いので、『公表』の前に『勧告』の妥当性を確実に争いうる旨の規定を置くべきである」との主張を維持しております。
 これについてbewaad氏は、「勧告」が処分には当たらないとの見解を明らかになさった上で、「公法関係確認訴訟」によって救済される可能性があることを指摘され、かつ「『公表』についての別案」を提示されておられます*1
 また小倉弁護士は、川神判事論文等をひきながら「また、人権擁護法案における勧告およびその内容に関して、これに従う義務がないことの確認や公表の差止めを求める訴訟を提起することが可能な場合もある」と述べておられます*2
 このお二方はいずれも「(司法による事前救済の)可能性がある」と述べておられるにとどまり、福田さまのように「人権擁護法案60条の勧告には処分性が有する」と明言なさっておられません。
 この違いはひとえに裁判例の評価が違っているからだろうと私は考えております。
 つまり、「勧告」の処分性が認められた事例としておとり上げになったものはいずれも「税関長の通知」や「国税局の督促」など、後続する手続が明らかに具体的権利義務に影響を及ぼすものである場合です。他方、「勧告」が保険医療機関指定に影響を与えるものであっても、「勧告」に処分性が認められない場合があるという事例もまた福田さまの提示なさった裁判例に含まれております。
人権擁護法案に定められた「勧告」が、どちらの部類に含まれるか考えた場合、私やbewaad氏は後者の部類に含まれる(従って処分性は認められにくい)とし、小倉弁護士は前者に含まれる余地もあるとされておられるわけです。
 で、福田さまは「完全に否定できない」と仰っておられますが、これは「前者に含まれるが、認められない場合もある」と理解してよろしいのでしょうか。
 普通に考えると「公表」のような“事実上の制裁”を具体的権利義務にかかわるものであるとした裁判例が存在しない以上、福田さまのご意見はいわゆる「原告独自の見解」と同様のものであり、裁判例の射程を見誤っておられると考えるしかないわけです。(その点、bewaad氏や小倉弁護士は真っ当な判例評価をされておられると思います。)
 司法審査を受け得る可能性が「否定できない」程度であるにもかかわらず、「公正さが間違いなく担保されている」などと仰られても困るわけで、行政争訟制度の充実なり人権擁護法案の修正なりを求めるのは当然です。「これは行政争訟制度の問題であり人権擁護法案の問題ではない」と仰るおつもりでしょうか。もしそうであるならば、それこそ他法令との関連を無視した議論です。
 もとより私の意見が無謬であるとは考えておらず、対話を通じて適宜修正を行っていくことは必要であると信じておりますが、他方いつまでも足踏みしていても仕方がないとも思っております。
 実際に法務省や人権問題懇話会も、不服申立手続を設ける必要性について認めたではありませんか。つまり原案は「司法救済による公正さの確保」の点では不安があると明らかになったわけですから、人権問題懇話会の方針が明らかになる前から「公正さは担保されている」と主張し続けていた福田さまの「処分性」理解には誤りがあったということではないでしょうか。
 とってつけたように「これらに加えて、人権問題懇話会で『是正勧告を受けた者の不服申し出手続きを設ける』という方針が固まっていることなどからも、公正さは間違いなく担保されていると考えても差し支えないと思われます。」と末尾に加えることを以って事足れりとされてしまっては、実りある議論には発展しにくいのではないかなあと感じます。今後もご指摘やご批判、ご感想は喜んで承りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。