「対案」に期待できるのか

 「真の人権擁護を考える懇談会」の座長をおつとめになられている古屋圭司衆議院議員のホームページに、次のような一文がありました。

日本の自由と民主主義を守るために(マンスリーIIC 6月号インタビュー)
平成17年6月1日
http://www.furuya-keiji.jp/activity_diet/17_06_01.html
 「座長」ということですから、古屋先生のお考えは「真の人権擁護を考える懇談会」の主流となるご意見(つまり、与党内に存在する見解の主要な一つ)でしょうから、一応検討してみたいと思います。

人権擁護法案
 かつて国会で廃案になった法案が、突然降って湧いたように登場してきました。

 この人は本当に国会議員なのでしょうか。本法案は採決によって否決された結果廃案となったものではなく、第157回国会が衆議院の解散により終了したため、自動的に廃案となったものです(156回国会までは継続審議)。従って、政府が改めて提出しなおしその成立を企図するのは当然です*1
 ちなみに、同国会で同様の理由により「廃案となった法案」に「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案」がありますが、これは第159回国会で可決成立しています。古屋先生は「曽(そう)祖父(そふ)の代から国会議員を務めている名家のご出身」だそうですから、「衆院解散により自動的に廃案になった内閣提出法案が、もう一度再提出されること」が「突然降って湧いた」と形容しうるほど不自然なことなのか、ご家族にでもお尋ねになってみられればよいかと思います。

 この発端は、平成三年に国連で人種差別等の人権侵害への対応が決議されたことからでした。その後、日本でも審議されましたが、平成十年、政府は“我が国は、既存の法制度や立法以外の措置によって差別行為を抑制することができないほど明白な人種差別行為が行われている状況ではなく、人種差別禁止法等の立法措置が必要とは考えていない”との正式見解を出しました。その後、当時の連立与党のプロジェクトチームにて政治的配慮もあって、本法案が提出されました。しかし、いわゆる「メディア規制」の可否以外は、本法案の根幹について議論されることなく廃案となりました。

 「本法案の根幹」とやらについて議論されなかったのは、古屋先生のご推測どおり“政治的配慮”によるものなのか、それとも「そもそもそんなものは論点としてくだらない」からなのかわかりません。当時の内閣を構成する重要な一員であった安倍晋三先生(官房副長官)や平沼赳夫先生(経済産業大臣)にでもお尋ねになってみてください。前回は賛成して今回あえて反対するには、かなりの積極的な理由がおありなのでしょうから。

 再度登場した法案の骨子は以前と変わりありませんが、詳細に調べますと、人権侵害の定義「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」が極めて曖昧(あいまい)で、根本的に問題があります。
 それは、“恣意(しい)的な解釈が可能”であり、人権侵害された人やその疑いがある人を救う法案ではないからです。人権侵害への擁護は断固行なっていかなくてはなりません。しかし、この法案は自由と民主主義、表現の自由を侵害する恐れがあり、悪用される危険性があるのです。

 何を以って“あいまい”と呼ぶのか、また、どこまで定義付けが行われれば“明確”と評価しうるのか、理解なさった上で古屋先生はこのようなことを仰っておられるのでしょうか。

 試みに「名誉毀損」(刑法230条)について考えてみましょう。
 刑法第230条は、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する」と定めています。名誉とは、人の「社会的評価」であり、毀損とは「害すること」つまり「人の社会的評価を低下させること」を意味するとされています。もしも大新聞が「小泉政権韓国漁船問題で韓国に対し極端な譲歩をした。」と大々的に報道すれば、当然小泉首相の社会的評価は低下しますから、名誉毀損等が成立してしまう可能性があります。ところがこれでは表現の自由を制限してしまうおそれがありますね。
 そこで刑法は「行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」(第230条の2第1項)と定めています。
 つまり

  1. 表現された事実が、公共の利害に関する事実にあたり(「公共性」の要件)
  2. 目的が専ら公益目的であり(「公益目的」の要件)
  3. 真実の証明があれば(「真実性」の要件)

これを「罰しない」としているのです。
 また名誉毀損故意犯ですから、「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実だと誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らして相当の理由があるときは、故意がなく、名誉毀損罪には該当しない」とされています(最判昭和44年6月25日)。
 また、名誉毀損については刑事的側面のみならず、民事的側面(不法行為責任)もありますが、民法第709条・第710条の適用にあたっても、以上述べてきたような刑法の考え方がそのまま適用されますし(最判昭和41年6月23日)*2不法行為の適用にあたっては表現の自由を十分に保護するため「行為者において事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定される」(最判昭和41年6月23日)として、「相当な理由」があれば過失の存在も否定し損害賠償責任を負わないとされています。

 「個人の人格的権利」と「表現の自由」については、このような調整が行われているわけですが、ここで使用されている概念(「公然」「名誉」「毀損」「公益」など)は、はたして古屋先生にご満足いただけるほど“明確”なものなのでしょうか。

 人権擁護法案に規定されるところの「人権を侵害する行為」とは「法的権利が侵害されること」に他なりません(法務省自民党法務部会における法案趣旨説明で「人権を侵害する行為とは、民事上の不法行為の枠組みを超えるものではない」と述べているはずです)。「名誉毀損の“あいまいさ”」を許容できる(少なくとも現行法秩序は許容し、その“あいまいさ”を有効に機能させている)のに本法案の「人権を侵害する行為の“あいまいさ”」を許容できないのはなぜなのでしょうか*3
 どうも、「あいまいだから認められない」という主張そのものの“あいまいさ”についてはずいぶんと無頓着なようですが、「対案」ではどこまで“明確”になさるおつもりなのか、興味深いところです。

 このような法案を議論もなく、国会に提出していくことは日本の民主主義を破壊する行為です。

 私たちは行動を起こしました。

 議論し行動なさるのは国会議員の本分ですから、大いになさっていただきたいと思います。

 四月五日、「真の人権擁護を考える懇談会」を発足させ、会長に平沼赳夫衆議院議員、顧問に安倍晋三衆議院議員等、三十人を越える自民党の国会議員が結集し、私は座長を務めることになりました。

 この懇談会では、いくつかの問題点を指摘しました。

 第一点は、人権委員会法務省の外局として人権委員会国家行政組織法三条委員会として設け、公正取引委員会のように準司法的な強力な権限を付与されることです。これが実現しますと、人権委員会は、特別救済の名の下に、出頭要請、事情聴取、立ち入り検査などの強制力を発揮し、拒否すれば罰則が適用されます。

 3条機関であることはそのとおりですが、「公正取引委員会のように司法的な強力な権限」が付与されているといえるのかについては疑問です。
 人権委員会の行為のうち、純粋に「準司法的手続」と呼びうるのは「調停及び仲裁」です。これはあくまでも当事者の合意によって成立する手続です。仲裁については手続参加を強制されることはありませんし、調停については仮に職権によって手続が開始されても調停案を受け入れることを強制されることはありません。これは、職権によって手続が開始され、第一審判決と同等の効力を有する公取委の審決等とは明らかに異なるものです。
 また、「訴訟への補助参加」も、裁判所に判断を仰ごうという制度ですから、「準司法的な強力な権限」とはいえません。

 なお、特別調査(立入検査等)について「正当な理由があれば拒否できる」ことに言及していないのは不正確であると言わざるを得ません。そして、「拒否理由の正当性」については裁判所が判断するので(非訟事件手続法第161条以下)、人権委員会が単独で過料の適用を決定することはできません。

 裁判所の令状なしに強制執行が可能となることで、国民に畏怖(いふ)の念を与え、自由な言論を抑圧する恐れが出てきます。準司法機関とするならば、本来であれば司法制度改革を通じて対応していくべきものだと思います。

 直接的な強制執行は行えず、間接的な強制は非訟事件手続法により裁判所の決定を待たねばならないことは既に述べたとおりです。従って古屋先生のご見解は不正確であり、徒に「国民に畏怖の念を与え」るものと言わざるを得ません。
 「司法制度改革を通じて対応すべき」というご見解はそのとおりです。しかし、人権擁護法による調停・仲裁手続や訴訟参加手続の創設はまさしく「司法制度改革」であるわけですから、「今さら何を仰ってるんだ」と首を傾げてしまいます。

<日本社会の秩序を壊す悪しき人権擁護法案
 第二点は、人権擁護委員の選考規定の不透明さです。現行の委員は一万四千人いますが、地域の名士になっていただいているのが実情です。加えて六千人増員するという法案であり、そこには国籍すら規定されておらず、偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受ける恐れがあるのです。

 現行法では委員の政治活動が禁止されていますが、新法案では禁止と明記してありません。法務省に問い合わせると、準公務員の扱いだから特に規定していないといいます。しかし、なんらかの目的意識や強大な権力を持った委員が六千人増えることは、事実上、政治・思想活動と等しい活動が可能であり、この法案が成立すると、自由と民主主義、表現の自由が損(そこ)なわれ、国家にとって大変に危険な状況が生まれます。

 もしも「現行法の定員及び実員がともに1万4千人であり、そして今回の法案は定員を2万人としている」というのであれば、古屋先生のご懸念は正鵠を射ていると言えるでしょう。ところが現行の人権擁護委員法も「上限を2万人とする」と定められた上で(人権擁護委員法第4条)、実員が1万4千人程度になっているのです。
 にもかかわらず、本法案が「上限を2万人とする」としていることが直ちに「6千人が増員され、実員も2万人となる」ことを意味するとお考えになる理由は何か、ぜひお聞かせいただきたいところです。
 なお、「準公務員」ではなく「非常勤の一般職国家公務員」です。一般職国家公務員は積極的な政治活動が禁止されており、違反すれば3年以下の懲役又は10万円以下の罰金が科せられます。ちなみに、人権擁護委員法における「政治活動の禁止」は、解嘱理由ではあっても罰則規定はありません。ひょっとして、罰則規定のない「人権擁護委員法による規制」よりも、懲役刑も含んだ罰則規定のある「国家公務員法による規制」のほうがゆるやかであるとお考えなのでしょうか(よもやそんなことはないと思いますが、この文面ではそう読み取れてしまいます。)。

 また、人権擁護委員は地方議会の意見を聴いたうえで市町村長が推薦するものとされているのですが、このような手続によってもなお「偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受ける恐れがある」と仰るのは、一体どのような理由があるからなのでしょうか。
 もしも、「議会や首長の推薦などアテにならない」というのであれば、「国会の判断などアテにならない」と言われても仕方がなく、つまるところ「古屋先生たちのご判断もアテにはならない」ということになるでしょう。試しに、「あなた方の意見に基づいていたら、偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受けた者が選出される恐れがあるから信用できない」と地元の地方議員や首長の皆さんに仰ってみられたらどうでしょう。一体どのような反応が返ってくるでしょうね。
 そもそも、公取委など独立行政委員会の委員同意(国会の議決事項)についてはどのようにお考えなのでしょうか。国会議員たる古屋先生から「議会や首長の判断がアテにならない」と自白されても、一国民としてはどう受け止めてよいのやらわかりません。「アテにできる制度」とはどのようなものか、ぜひ立法府を構成する一員としてご見解を詳らかにしていただきたいと思います*4
 なお私は、人権擁護委員に国籍要件(「地方参政権」などという回りくどい表現ではなく、日本国籍)を設けてしかるべきだと考えておりますので、国籍要件については古屋先生と見解を異にするわけではありません。ただ、国会議員のご見解にしてはずいぶんな記述が散見されたため、あえてコメントさせていただきました。

 言論に生きている文化人、メディア関係者はもちろん、私たち政治家も、不当な差別を受ける可能性が高くなり、あわせて、国民の日常生活にも大きな影響を与える法案なのです。

 例えば、これまでノーネクタイやペットお断りの店、刺青(いれずみ)お断りの銭湯などでも、人権に関わる問題だと訴えられると、委員会が救済手続きを開始する可能性が出てきます。

 まず、「ノーネクタイ」について。
 ドレスコードとは、周囲の雰囲気を損なわないために、場所や時間帯に合わせた服装をするよう求めることを指すのですから、民族衣装の正装も許容されるのではないでしょうか。で、「ノーネクタイの店」がどうして「人権侵害を行っている」と批判されうると仰るのでしょうか。代々国会議員を輩出する名家のご出身である古屋先生からご覧になって、紋付羽織袴は無作法にあたるとお考えなのでしょうか。

 次に「ペットお断りの店」について。
 古屋先生は国会議員ですから、2003年10月1日に「身体障害者補助犬法」が施行され、不特定多数の者が利用する民間の施設で、盲導犬を含む補助犬の受け入れを拒んではならなくなったことは当然ご存知でしょう。もちろん、補助犬の認定を受けていない犬の同伴を拒むことが何ら「人権侵害」にあたらないことは、わざわざご説明さしあげるまでもありませんね。
 ところで、「障害者基本法」は基本理念で「全ての障害者は社会を構成する一員として、あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられる(同法第3条第2項)」とし、ノーマライゼーションの理念に基づく社会づくりが国を挙げて進められております。国会議員である古屋先生も国政を担う一員としてノーマライゼーションの理念実現を推進する立場におられるわけですが、古屋先生はどのような意図で「ペットお断りの店が人権に関わる問題だと訴えられかねない」との危惧を表明なさっておられるのでしょうか。(ひょっとして、、、補助犬とペットとを同一視しているのではないでしょうね。“真の人権擁護を考える”国会議員の先生が、まさかねえ。)
 まあ、本当に高級店なら補助犬をペットと同一視するような不見識な人物が出入りするとは思えませんので、先生の危惧するような事態は起こり得ないと思うのですが。

 次に、「入れ墨お断り」について。
 「入れ墨」は、自らを一般の社会成員と隔てることを意図して行われるものであり、自ら選択して暴力団組織等に加入している(た)ことを示すものです。従って、公衆浴場等において入れ墨を施した裸体をさらす行為は、暴力集団の力を背景にして無理を通そうとする人物であることを自ら積極的に周囲に表明する行為ですから、一概に「不当な差別である」ということはできません。

 お年寄りが年金で経営する小さなアパートでも、外国人お断りという入居条件に対して委員会が特別救済措置を取り、家賃を滞納する素性の知れない人たちを排斥できないことにもなりかねません。

 「家賃を滞納する素性の知れない人たち」は、日本人であると外国人であるとを問わず存在します。だからこそ「家賃の滞納に備えて保証金(敷金等)を契約時に徴収する」という社会慣行があり、保証人制度があるのではないでしょうか。外国人を一律に「家賃を滞納する素性の知れない人たち」と切り捨てる古屋先生のご見識には恐れ入るばかりです。

 また、教育現場にも大きな影響を及ぼします。平成十一年に国旗・国歌法が成立し、国旗を掲揚し、国歌斉唱するという教育指導要領に基づく先生の指導に、「歌わない自由もある。人権を侵害された」という生徒や父兄の偏った主張に対して、目的意識を持った人権擁護委員がことさら大きく取り上げて救済を申請した場合、調査せざるを得なくなります。対象となった先生はテレビや新聞で大きく批判され、その挙句に地位すら剥奪(はくだつ)されるかも知れません。

 「国旗掲揚・国歌斉唱」については、裁判所は「卒業式等において国歌を斉唱するよう指導することは、国歌を尊重する態度を育てるという教育目的に沿うほか、学校生活に有意義な変化や折り目を付け、集団への所属感を深めるという目的にも沿うことからすれば、卒業式等において国歌斉唱を実施することは、正当な教育目的に対して、一定の教育効果が期待できる教育活動ということができる。」などと判示し、片っ端から国(及び都道府県など)側の主張を認めてきたところです。数々の裁判例を乗り越え、人権委員会があえて教員に「国旗掲揚・国家斉唱を拒否する自由」を認めてしまうのではないか、と危惧なさる根拠を、少なくとも古屋先生の論考の中からは見出すことはできません。

 「間違いの場合は訂正を発表する」と法務省は修正案を出していますが、それは事後の処置であり、人権の回復は決してできません。企業に公正取引委員会が立ち入り調査を行なっただけで新聞に大きく報道され、企業自体に問題がない場合でも、その後、入札が排斥されるなどの被害を受け、場合によっては倒産するケースもあるのです。

 一般的な「指名停止基準」によれば、「入札が排斥される(指名停止の意味と思われる)」のは公取委から

  1. 「排除勧告の応諾があったとき」
  2. 「課徴金納付命令が出されたとき」
  3. 刑事告発がなされたとき」

などであって、公取委が立ち入り調査を行っただけでは指名停止などにはなりません。もちろん、「刑が確定するまでは無罪が推定されるのだから、刑事告発がなされただけで倒産に追い込まれたりするのは許せない」という主張には傾聴すべきものがありますが、それはひとえにマスメディアによる「犯人視報道」「実名報道」の問題であり、本法案とは無関係でしょう。「刑や処分が確定するまで、実名での事件報道を許してはならない」とでもしない限り「報道被害」は避けられませんから、この際ぜひ報道規制の導入を検討なさってはいかがでしょうか(あれ?表現の自由が著しく制限される気もしますが、気のせいですよね。)。

 さらに、北朝鮮による日本人拉致被害者救出活動にも影響を及ぼします。卑劣な北朝鮮の犯罪に対して、「金正日はけしからん」という意見を北朝鮮に共感を持つ委員や朝鮮総連や北に近いグループが聞きつけ、「うちの首領さまを批判した。人権侵害だ」と、強烈に繰り返して訴えた場合、救済手続きを開始することもありえるのです。

 私は「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」事務局長を務めていますが、議連連盟や家族会による被害者の救出活動そのものが制限される可能性も出てきます。同胞を救出することができない、こんなばかなことが許されていいのでしょうか。KGBゲシュタポなどの秘密警察が日本に出現するといっても過言ではありません。

 「公人である金正日(なにしろ一国の指導者です)」に対する正当な批判が「人権侵害」に当たらないのは前述のとおりです。従って北朝鮮批判が「金正日の人権を侵害する行為」と認定される見込みは皆無です。また、「私の崇拝する金正日に対する批判は、私の心を傷つけた」という主張が失当であるのは、「小泉首相靖国参拝は、原告らの具体的権利(宗教的人格権)を損なうものではない」のと同様です。「具体的な権利の侵害がある(明白に想定される)からこそ、衝突する権利との調整が図られる」という大原則を無視して、「あれも差別だ、これも差別だ、といって勧告される」と騒ぎ立てるのは軽佻と言わざるを得ません。「誰かが勝手に主張すること」と「国家機関がその主張を認めること」には東シナ海より大きな開きがあるということを忘れてもらっては困ります。

 拉致被害者およびそのご家族の皆さんのご心痛は察するに余りあるものですし、古屋先生をはじめ多くの方々が被害者やそのご家族のためにご尽力なさっておられることには純粋に敬意を表します。しかし、本法案の成立と拉致被害者の救出活動とをこのように結び付けるのは牽強付会ではないでしょうか。
 「金正日は拉致犯罪の首魁だ。」と指弾する行為は、当然のことながら公益に関わる問題であり、真実性があるのですから、名誉毀損等に問われることはありません。しかし、「朝鮮人はすべて拉致に加担した犯罪者だ。だから朝鮮人○○は犯罪者だ。」と指弾する行為は、名誉毀損・侮辱に該当するおそれがあるでしょう*5。「JR西日本が107名の命を奪う事故を引き起こしたことで民事上は言うに及ばず刑事上の責任を負うとしても、JR駅員の背中を蹴飛ばしてはいけない」「いくら日本政府の政策に不満があっても、日本人留学生を殴ってはいけない」というのと同様です。

 このように極めて大きな問題がある人権擁護法案がなくても、権利侵害を受けた方には現行の司法制度改革をさらに進めることで、対応することが可能なのです。

 高齢者や児童への虐待、家庭内暴力には個別法が立法されており、充分に対応できると思います。また、司法書士などが簡単に裁判の手続きができるADR(裁判外代理制度)を充実し、現行の人権擁護委員の権能を強化し、簡便で公正な司法救済を受けられるようにすることで権利侵害を受けた者は救われると思います。

 私も、「人権侵害事象に対する簡易迅速な救済制度は本法案しかあり得ない」とは考えておりません(おそらく法務省も、そんなことはこれっぽっちも考えていないでしょう)。
 個別法の制定に異論はありませんが、他方、個別法が多数制定されることにより窓口が複雑化してしまったり、同様の業務を行う機関が分散しすぎて人的資源を確保することが困難になったりするといった弊害が生じるおそれがあることも留意していただきたいところです。例えば現在検討されている「高齢者虐待防止法」は調査権限を有する機関を市町村としているようですが、他方児童虐待に関して立入権限を有するのは都道府県(児童相談所)です。また、DV防止法の運用権限を有する者は都道府県(婦人相談所)と警察です。現在でもこのように窓口が多数存在し、人的・社会的資源が分散しているのに、今後障碍者、病人、性的志向に基づく差別を受けている者、宗教勧誘被害、外国人差別などなど種々雑多な人権侵害事象に対して個別的な救済窓口を設けていくということが政策として合理的かというと、そうではないように思われます。むしろ、種々雑多な人権侵害事象に対応する包括的な窓口を設けた上で、さらに深刻かつ多数の被害が生じている人権侵害事象の類型に対して個別法を制定し専門機関を設置するという選択が、制度設計としては合理的なのではないでしょうか。
 また、個別法(DV防止法、児童虐待防止法など)があくまでも被害者に対する行政措置(救護施設での一時保護など)を頂点とする制度設計であるのに対し、人権擁護法案が加害者に対する民事上の請求を頂点とする制度設計であることも、大きな相違点として挙げることができます。つまり、同じ犯罪について刑事上の責任追及と民事上の賠償請求とが並存しているように、同じ虐待事案に対して個別法に基づき被害者の直接的かつ一時的な保護を図りつつ、人権擁護法に基づき民事上の賠償・被害回復を求めていくというような制度相互の連携が行われるということは何ら不自然ではないと思われます。

 ところで、人権擁護法案における調停・仲裁はまさしく古屋先生の仰るところのADRです。「ADRの充実をもって被害者救済を図る」ということは、人権擁護法案と何ら対立するものではないどころか、人権擁護法案の必要性を裏書するようなものなのではないでしょうか。
 また、「現行の人権擁護委員の権能を強化する」とは、いかなるものをお考えなのでしょうか。ただでさえ「人権擁護委員の権限が強大である」という(的外れではあるにせよ)批判が喧しいところにもってきて、このようなご見解を明らかにされる意図がよくわかりません*6

 以上のとおり、古屋先生のご懸念はそのほとんどが杞憂と呼ぶべきものであると言わざるを得ません。本法案が党法務部会における議論の俎上にのぼって2ヶ月以上になるのですから、もっと掘り下げたご見解を示していただけるものと期待しておりましたが、まことに残念です。

<余談>

 ここまでお読みになった方は不思議に思われるかも知れませんが、実は私、一貫して人権擁護法案に反対しています。にもかかわらず、なぜ上述のような見解を申し上げるのかといいますと、反対派の主流を形成する議論にどうしてもなじむことができないからです。

 私の反対する理由は主に

  1. 「私的な糾弾行為」を制限する条項がない。
  2. 人権委員会の行う勧告」に不服があるときのための司法審査手続が明確でない。
  3. 「勧告の公表」は名誉刑的色彩が強いので、安易に採用すべきではない。

の3点です。

 本法案の土台となった人権擁護推進審議会には、次のような発言が見られます。

 戦後,人権思想というのは戦前とは根本的に違ってきたと思います。しかしなお差別が強く残ってきました。そして,京都のオールロマンス事件を機に,運動は行政糾弾へと展開していくのですけれども,行政糾弾というもの,これはかなり熾烈なものであったと思います。法務省でも交渉なるものが行われてきたのですけれども,昭和60年代に入ってもそれはかなり強烈なものでした。しかし,心理的,物理的環境も大きく改善し,だんだん救済制度が整備されてきており,今度飛躍的に人権制度が変わろうとしている,そういう中で自力救済的な色彩を残しているものをどうするのかということはやはり考えていかないといけないと思うのです。先ほど申し上げたように,自力救済的なものがおのずから存在価値をなくしていくような状況にしていくことが近代国家の使命でありまして,我々はそういう努力をしてきている。そして,今度は画期的な人権制度をつくろうとしている。そのように時代が転換していくときに,行き過ぎることを非常に内在している自力救済行為をなお残すのかという観点からこの問題は考えていかないといけない。近代国家にとっては,そういうものを残していくということは本当は恥ずかしいことでもあるわけなのですね。
 私は,そういう意味からいうと,今後こういった行為がどう変化していっても,その本質が変わらない限りは,我々はそういうものをいつまでも認めていってはいけないのではないかということを強く感じます。例えば第三者を参加させても,それは第三者が主催するわけではないわけですから,おのずからその限界があるわけです。私はかねてから,被害者団体というものは,一般啓発,つまり,差別というものはそれを受ける側にとってこんなに大きな影響を与えるものですよ,あなた方はそういうことを御存じですか,その一言の持つ意味を御存じですかという,一般啓発にこそ向けられるべきものであって,個別啓発に向けられるときには,非常に問題が出てくると考えてきました。もちろん,そういうものをやるやらないを決めるのは,それをやっておられる運動団体ですけれども,そういう社会情勢の大きな変化,しかも今は一つの大きなターニングポイントに来ているということはよくお考えになっていかないといけないと考えます。
人権擁護推進審議会第61回会議議事録(平成13年4月16日)より抜粋

 “行き過ぎた糾弾”により、多くの人々が傷つけられてきました。そして、そこから派生した「同和はコワい」というイメージを利用して企業などに不当な要求(エセ同和行為)を行う輩が今もなお蔓延っています(まるで暴力団や総会屋のようです)。人権侵害を簡易迅速に処理できるような法制度が整備されれば、「私的糾弾」を正当化する根拠をなくしていくことができます*7。本法案は、「糾弾」を撲滅するためにこそ設計され、運用されなければならないのです。単に「反対」と主張するだけの方々は、自称被害者団体が私的糾弾を行いかえって他人の人権を侵害しているという現状を結果的に追認することになりかねないことについて、もっと自覚的であるべきではないでしょうか。

 国会議員として「対案」を世に問うお立場である古屋先生をはじめとする皆様におかれましては、大いにご議論を重ねていただいた上で、「よりよき対案」をお示しになられますことを期待いたします。

*1:それを審議するのは議院の役割ですから、議論もせず直ちに可決せよと述べているわけではありません。念のため

*2:もっとも、民法不法行為の規定は名誉毀損と侮辱を区別していませんし、過失であっても損害賠償義務が発生します。

*3:公権力の行使たる「特別調査」の対象については、法案第42条においてさらに限定されています。もちろんその限定の程度については議論の余地があると思いますが、私にはこの限定が刑事上の定義より“あいまい”だとは思えません

*4:なお、これは人権擁護法案だけの問題ではありません。人権委員・人権擁護委員の選出過程は、法律・条例の制定過程とほぼ同じなのですから。

*5:もちろん朝鮮人○○が拉致事件に関与していると強く疑われる場合はそうではありません。また、拉致以外の犯罪に関与している場合については、別途批判の対象となりうるでしょう。

*6:ちなみに、人権擁護法案において人権擁護委員の権能はほとんど強化されておりません。強化されたのは事務局、すなわち法務局職員の調査権限です。

*7:例えば債務の取立てについては厳しい規制があり、特定調停や破産手続の開始とともに取立行為そのものも大幅に制約されます。糾弾を受けるおそれのあるものが人権委員会に調停等を申し立てることで、その後の私的交渉が大幅に制限され一定の規律の下での話し合いが確保されるようになるならば、「糾弾による人権侵害」を抑制することになりはしないでしょうか。本法案に疑問を抱いておられる皆さんがなぜ悪用の危険性(しかも荒唐無稽な想像)ばかり言い立て、自らの権利保護のために役立つ法制度へと作り変えることを考えないのか、私には理解できません。