裁判は、誰が担当しても同じようでなければならないのか

 まあ全然更新していなかったわけですが。
 下書き程度の文章(「公表制度の問題点」とか「メディア規制“だけ”通さないか―奈良女児殺害事件から―」とか、他いくつか)は溜まってきているのですが、なかなか公にする気になれないわけでして。正直なところ、人権擁護法案をめぐる議論の不毛さにウンザリしてきたので、今回は人権擁護法案とは直接関係のない(でも間接的には関係のある)話題を、メモ書きとして少し。

 法秩序を形作る価値の一つに「法的安定性」というものがあります。法は社会成員の生活上の指針となることから、その内容が一定の安定性をもって存続することが求められる、ということです。「裁判所の判決が統一されていること」は、「法的安定性」を維持するために必要な条件です。「訴えても結論がどう転ぶかわからない」ということでは、法は社会生活や商取引の指針たり得ないからです。
 他方、「裁判官の独立」というものも、法秩序を形作る重要な価値として広く承認されています。裁判官が外部からの干渉を受けないことは、やはり恣意的な法適用を防ぐために必要であるからです。
 この「判決が統一されているべきこと」と「裁判官が独立しているべきこと」とは、対立する関係にあるといえます。個々の裁判官が外部からの干渉を受けず個々の良心に従い判決するなら、判決はそれぞれの裁判官の価値観によりさまざまに分かれることになるからです。
 裁判官の独立を維持しつつ判決を統一するために、「上訴」という制度が機能しています。「上訴」は、下級審の判決に不服である当事者が、改めて自己の権利の保護を求めることができるようにした制度ですが、その際上級の裁判所が下級審の判断を審査することで、司法府として統一的な法解釈を示すという機能も果たしています。しかし、この「上訴」という制度によっては、完全に判決を統一することはできません。なぜなら、上訴を行うことは当事者が決定するものであり、仮に上級審が「是正したい」と望んでいても当事者によって事件が上級審に持ち込まれなければ判断を下しえないからです。
 この「不完全な統一性」は、司法府の大きな特徴ということになるかと思いますが、「不完全さ」をどこまで許容するかについては、

「裁判官は国の機関として裁判を行うのであるから、誰がそれを担当しても同じような判断が示されるようになっているはずのものだからである。(略)具体的には、最高裁判所判例がある問題については判例を目安に、それがない問題については裁判官仲間の通説的見解といったものを想定し、自分の考えがそれらからかけ離れていないかを考えながら執務すべきだということになろう」(佐藤文哉*1「裁判官の心構え」『法学セミナー増刊総合特集シリーズ27 現代の裁判』・1984年。)

という見解もあれば、

「良心を中核とする裁判官の全人格を裁判官独立の根底に置こうとするこうした見解は、別言すれば、個々の裁判官の主体性を裁判官独立の基礎とする議論である。わたくしは、これが正しい議論だと考える。わが国でもすぐれた裁判官のあいだにこの種の議論がみられるのは、当然のことである。例えば、石井良三判事が裁判官の主体性の問題として良心を考え、それでなければ裁判の実際から相い去ることははなはだ遠いとされ、中村治朗判事が裁判の客観性をめぐる問題を追求して、「わたしたちにとっては、単なる傍観者や批評家の研究や観察の題目たるにとどまるものではなく、みずからの実践に深く関わり、実践の場において答えを出してゆかなければならない問題なのである」とされ、横川敏雄判事が憲法第七十六条第三項の規定を「切実な実践の指針として把握」するべきことを主張して、「まず裁判官が良心的に―絶えず主体的にこの言葉の意味をかみしめ深めながら―その職にあた」ることが全ての前提だと説かれるのなどが、それである」(団藤重光*2『実践の法理と法理の実践』創文社・1986年。)

という見解もあります。

 この「横並びであるべき」という裁判官像と「主体的であるべき」という裁判官像との狭間で揺れ動いているのが現実の裁判官なのであろうと思うのですが、これをよくあらわしているのが次の発言です。

「裁判官が自分の判断で判決をするのはもちろんですが、その結果の見通しはあるわけです。最高裁判所に上告されて、また戻ってくる*3ということでは自分の判断をしても、それは自分の独りよがりで、結局は当事者に長い間迷惑をかけることになるという問題もありますし、戻ってきて他の人の負担を増やすという問題もありますから、上告審の動向と自分の法律的な見解の中で、常に思い悩んで判断する。それは裁判官の常だと思います。最高裁判所判例の拘束性を過大に評価して、萎縮しているのではないかと言われてしまいますが、現場としては当事者に与える影響を考えます。(中略)自分の理論や判断基準とともに、当事者に与える影響も考えますから、裁判官の判断というのは、個別具体的に検討していくしかないと思います。」(座談会「裁判官をしばってきたもの―独立性の確保から司法改革へ」『月間 司法改革』第9号(2000年)における守屋克彦氏発言*4

 「個別具体的な事件と上級審の判決との間の視線の往復」が、裁判官(に限らず法曹一般)の営為であり、それ以上でもそれ以下でもない、というより、あるべきでない、と思います。そして、果たして「裁判官仲間の通説的見解」を視線の往復先に加える必要があるのかというと、はなはだ疑問です。そもそも「裁判官仲間の通説的見解」というものを、どうやって推し量るのでしょう。公刊物未登載の裁判例が数多く存在する中、結局は裁判官会同・協議会や、個別のレファレンスサービスで示される事務総局見解に従うことが、つまるところ「裁判官仲間の通説的見解」に配慮するということになるのではないでしょうか。

 また、「結局は当事者に長い間迷惑をかけるから」というのは正しい配慮であるには違いないのですが、「長くかかる」というのは本来司法制度の問題であるので、扶助制度の充実や審理期間の短縮など制度が変化すれば自ずと「迷惑」の度合いは低下することになるでしょう(決してなくなるわけではありませんが)。
 裁判官が個別具体的な事実を見つめる中で最高裁判例と異なる新たな事情を見出したとき、横並びにいる裁判官の通説的(に見える)見解に引きずられることなく判例と異なる判断を示すことは、裁判官の権利であるとともに、最高裁に対して新たな法規範を定立する機会を提供するという意味で裁判官の義務とも言えるのではないでしょうか。そういう観点からすると、ことさらに判決の統一性を求めることは、司法の判断が社会から乖離していくことにつながり、かえって当事者のためにも、社会のためにも、そして司法のためにもよくないのではないかなあと考える次第です。

*1:執筆当時佐藤氏は東京地裁総括判事。氏は最高裁調査官、東京地裁所長代行、静岡家裁所長などを経て仙台高裁長官。

*2:団藤氏は1984年に最高裁判事を退官。

*3:引用者注:破棄差し戻し

*4:守屋氏は東京家裁判事、仙台家裁判事などを経て仙台高裁秋田支部