BI@Kの胸を借りてみた。

 私の敬愛するブロガー、webmasterさま(Bewaad Institute @Kasumigaseki)が人権擁護法案を取り上げていらっしゃることを奇貨として、あえてイチャモンをつけてみたところ予想通り得るものが多く、教えを請うてみるものだと思った次第です。ニュースでよく見かける「力士にまとわりつく小学生」のような気持ちを味わうことができたのも一つの収穫ではありますが、本題の人権擁護法案についても(少なくとも私にとっては)学ばせていただきました。ありがとうございます。また、コメント欄で様々な裁判例をご紹介くださった福田さま、有益な論文をご紹介くださった小倉先生、的確なコメントをくださいました暇人さま、ありがとうございました。

 本題に入ります。
 webmasterさまは人権擁護法案に規定された勧告の公表の性質について、次のようにご説明なされています。(以下、枠内はBewaad Institute @Kasumigaseki 2005年3月19日付 http://bewaad.com/20050319.htmlより抜粋させていただいたものです)

 これらを見ていろいろ考えた結果、webmasterは、勧告の公表は提訴(判決にあらず)の前段階としての措置として位置づけられているのではないだろうか、という仮説に至りました。

 提訴というのは何を指すかということですが、次の2種類のことを指しておられるのだと思います。

  1. 法案第63条にいう、特別人権侵害に対する民事訴訟不法行為に対する損害賠償請求)への訴訟参加
  2. 法案第65条にいう、差別助長行為等の差止請求訴訟

 法案第63条の民事訴訟は、特定の人物に向けられた差別的言動に対して起こされるものですから、原告は差別的言動に曝された(とされる)特定の人物であり、国(人権委員会)は原告の補助参加人ということになります。
 法案第65条の差別助長行為等差止請求訴訟は、法案第3条第2項各号、すなわち不特定多数の者に向けての差別助長行為等に対して行われる訴訟ですから、原告が特定されず、そのため国(人権委員会)が原告となるよう定められているということになります(検察官が公益の代表者として種々の権限を与えられていることと同じ理解でよいと思います)。
さて、勧告の公表が後続する提訴の前段階としての措置であるとするとどうでしょうか。

 憲法上、人権に関する訴訟は必ず公開されます(第82条第2項ただし書)ので、その提訴は事実上勧告の公表と同じ効果を有します(原告が敗訴した場合であっても、訴訟が公開して行われたという事実が遡及的になかったことになるはずもありません)。とすると、あくまで相対論ですが、勧告の公表となる対象者が公知の状態にはおかれないという保護法益は、一般人に比べると少ないということになります。

 まず法案第61条所定の「勧告の公表」に後続する提訴は、私人である特定の人物に主導権があり、国(人権委員会)が行いうるものではありません。したがって、「勧告の公表」は「従わなければ提訴しますよ」ではなく「従わなければ提訴される“かも知れません”よ」と述べているに過ぎません。webmaster様は「提訴の前に公表されても、提訴によって勧告の存在が明らかになっても生じる不利益はさほど変わらない」と仰っていますが、原告となりうる私人が提訴するか否か不確定であるはずにもかかわらず、補助参加人が「勧告の公表」を行うというのには違和感を覚えます。「○○氏は、××氏の行った差別的言動により生じた損害賠償を求めて××氏を提訴した。なおこの訴訟は人権委員会が○○氏の補助参加人となっている」でなぜいけないのでしょうか。
 次に、国(人権委員会)が原告となる法案第65条所定の差別助長行為等差止請求訴訟ですが、これについては提訴するか否かを人権委員会が決定するわけですから、前述のような不確定要素はありません。しかし、そもそも「このままだと彼はもうすぐ訴えられますよ」と「公表」することに何の価値があるのでしょうか。これは国が、“訴訟コスト”や“周囲の白眼視”がプレッシャーとなりうること、言うなれば「逮捕=犯人」という社会的偏見に類似した“裁判沙汰への忌避感情”を国が是認することにつながる危険を感じます。「人権委員会は、××氏の行為を差別助長行為にあたるとしてその差止を求め提訴しました。黒白は裁判所が決定します」でなぜいけないのでしょうか。
 いずれの場合も、「提訴の“可能性”」は当事者に理解させられれば足りるはずですし、なにより“裁判沙汰を抱えることに対する忌避感情”を国が利用しようというのは、差別問題の解決を公的な場でルールに基づいて処理しようという法案の趣旨と真っ向から対立するものであるように思います。
 “ソフトな解決を目指す”といえば聞こえがいいですが、その結果、行政行為が権利義務に及ぼす影響をあいまいにし、また“訴訟への忌避感情”も助長するというようでは、“人権擁護”の名に値しないものといわざるを得ません。
 迅速な紛争解決を目指すのは結構ですが、安易なADRの導入はかえって弊害をもたらすことになりはしないかと心配です。

(本エントリーについて)

“権限なき行政”による解決は利益紛争にはなじんでも権利紛争にはなじまないのではないかという私の考え(信仰?)が、私がこの部分にこだわる理由であるようです。
webmasterさまのエントリーの内容と噛み合っていないかも知れませんが、エントリーを拝見した感想として述べさせていただきました。