続・特捜部長の報道機関批判文書

「論壇」誌において、件の「私信」全文が紹介されていました。
http://www.rondan.co.jp/html/kisha/0501/050127-sub.html
 “原典”を読む限り、氏は「マスコミ対策がいかに検察の頭痛のタネであるか」を修習生らに訴えたかったようです。
 “原典”にあたっても、氏の文章は“穏当さに欠ける表現”には違いなく、軽率の謗りは免れないように思われます。このような愚痴めいた内容の文章を修習生向けに出してどうなさるおつもりだったのか、意図がよくわかりません。また、検察も記者クラブを都合よく利用してきたり、報道から捜査の端緒を得たこともあったでしょうが、氏はそういった側面には言及する価値を認めておられないようですね。
(上記は前日の落合先生のブログhttp://d.hatena.ne.jp/yjochi/20050129にコメントさせていただいた内容ですが、一応あらためてこちらにも掲載しておきます。)
 ブログの世界では、マスメディアを揶揄したり、批判する論調が流行りのようです。たしかに、メディアスクラムや、記者クラブによる情報の囲い込み、警察発表のたれ流し報道など、マスメディアの抱える問題は多いでしょう。また、マスメディアから一方的に情報を受けるだけでなく、自ら情報を解釈し、発信しようとする人々がブログで意見を開陳しているわけですから、マスコミ批判が支配的論調となるのも無理からぬことです。マスコミ報道を鋭く検証しているブログもしばしば見受けられ、なるほどと感じ入ることもしばしばです。
 しかしまあ、たとえば1990年代における“食糧費不正支出問題”や近年の“捜査協力費不正支出問題”などのように、マスメディアの報道が捜査に先行する場合や、メディアが世論を喚起することによって制度改善が図られる場合もあるわけで、マスコミ批判一辺倒というのも、また一面的評価であるように思われます。“批判しやすいものを批判する”ことは、簡単にできますからね。正義を振りかざすマスコミを批判するのもまた然り。

件の「私信」は以下の通り。
(某受験生及び修習生向け雑誌の原稿抜粋)
東京地検特捜部長に就任して
三 特捜部の実態について
 東京地検特捜部は我が国最強の捜査機関などとよく喧伝されます。 しかし、特捜部の中にいるととてもそのような実感を持つことはできません。また、決してそのように喧伝されるような華麗な捜査をしているわけでもありません。
 最初は事件なのかどうかさえもよく分からない様々な出来事の中でもがき苦しみながら何とか事件の形を掴んでいくという、 気の遠くなるような作業の連続です。一つの事件を仕上げるのに一年以上の期間を要することも多々あります。それで成功すれば良いのですが、失敗することも少なくありません。捜査が成功した場合には、肉体的には辛いものがあるものの、その辛さなど吹っ飛んでしまう達成感を味わうことができます。しかし、失敗した場合には、それまでの肉体的な疲労の上に精神的な辛さが加わり、しばらく立ち直れないこともしばしばです。
 捜査部長も経験された吉永元検事総長が特捜部の捜査は山の稜線を歩くようなもので、一歩踏み出すと谷底に転落するという比喩を述べていましたが、私もまさにそのとおりだと実感しています。
 また特捜部の扱う事件の性質上、どうしても政治との緊張関係が続くことがあり、その意味での精神的な負担をかなり強いられます。
 さらにマスコミとの戦いがあります。正直なところ、マスコミの取材と報道は捜査にとって有害無益です。マスコミが無闇に事件関係者に取材したり、特捜部が誰を呼びだして取り調べたとか、捜索をしたとかの捜査状況の報道をしたり、逮捕や捜索の強制捜査のいわゆる前打ち報道をしたりすることによって、事件関係者に捜査機関の動きや捜査の進展具合を察知され、事件関係者が否認や黙秘に転じたり、その口が固くなって供述が後退したり進展しなくなったり、証拠隠滅工作がなされたり、関係者の逃亡やあげくの果てには自殺に至るということが少なくありません。そのような報道や取材は、まさに、捜査を妨害し、事件を潰して刑事責任を負うべき者や組織にそれを免れさせ、社会正義の実現を妨げ、犯罪者及び犯罪組織を支援している以外の何物でもありません。それは、同時にマスコミが犯罪者そのものに成り下がっていることの現れであると言って少しも過言ではありません。私は、常々、記者らに、そのような取材や報道に何の社会的意味があるのか、君らは犯罪支援をしていて恥じないのかと言っているのですが、まともな反論を聞いたことがありません。私の指摘が正鵠を得ているが故に有効な反論をし得ず、逃げているだけなのです。
 その上、マスコミは、無責任に捜査をあおるだけあおっておいて、結果があおった通りにならないと、一転して手の平を返すごとく捜査を揶揄したり皮肉ったりするのが常套手段です。
 しかも間違ったあるいは捜査妨害の報道や取材をしても、謝罪するどころか、論理をすり替えて他に責任を転嫁するのが彼らのこれ又常套手段です。この世の中で、マスコミほどいい加減で無責任な組織はないというのが、私が特捜検事を長くしてきた経験に基づく実感です。
 そして、そのような取材や報道をする記者達の動機は、社会正義の実現などという崇高なものでは決してありません。自分がマスコミの社内で高く評価されるための功名心、あるいはそれと裏腹の自分が低く評価されて左遷などされないための自己保身以外の何物でもないのです。実際に、数は少ないのですが、それでも多少でも心ある記者は、私に内々そのような動機に基づく取材や報道であることを認めています。
 以前に、法の華三法行という組織の犯罪について強制捜査(これ自体は警視庁が担当したものですが、本質は何も変わりません)の前打ち報道をしたことが原因となって証拠隠滅がなされたことがあり、読者からその前打ち報道について批判されたことがありました。その批判に対して、その社の記者は、「捜査の進展を把握し、正確かつできるだけ迅速に伝えることは、報道機関の責務であり、捜査機関をチェックするうえでも必要なことだとも考えている」旨の弁明記事を掲載しました。しかし、これは、私に言わせれば詭弁の最たるものです。どこに捜査の進展を把握し、正確かつできるだけ迅速に伝えることによって事件が潰れ、犯罪者がその罪を免れて良いと考える国民がいるでしょうか。少なくとも良識のある国民はそんなことは一つも望んでいません。しかも正確な報道どころか、誤った報道が多いのですからこの弁明は噴飯ものです。また、そもそも捜査機関のチェックをすることによって事件を潰してしまったら元も子もないはずです。それ以上に捜査機関のチェックができるだけの見識と良識を持った記者に今までついぞお目にかかったことがありませんし、本当に捜査機関のチェックをするというなら捜査後でなければし得ないはずです。
 そのような意味で、マスコミは、やくざ者より始末に終えない悪辣な存在です。少なくともやくざ者は、自分たちが社会から嫌われ、また社会にとって有害な存在であることを自覚し、自認しています。ところが、マスコミは表面的には社会正義の実現などというきれい事を標榜しながら、実際はそのような卑しい薄汚い動機に基づいて捜査を妨害し、社会正義の実現を妨げ、犯罪支援を行っているのです。厚顔無恥も甚だしいものがあります。まさに百年河清をまつ思いです。
 そのようにマスコミは本当に有害無益な存在です。マスコミに気づかれずに強制捜査に着手できれば、その捜査はほとんど成功したと言っても過言ではありません。例えば、先に触れた金丸信自由民主党幹事長らによる脱税事件、元建設大臣中尾栄一らによる受託収賄事件、中央社会保険医療協議会をめぐる贈収賄事件などがその典型例であり、マスコミに気づかれずに捜査を進めることができたことが一因となって、金丸や中尾あるいは中央社会保険医療協議会関係者の自白も得られたのです。逆に捜査がマスコミの取材や報道に巻き込まれ、妨害されて、困難を来したり、事件が潰れたり、事件が伸びずに末端の者の摘発だけで終わって本来摘発されるべき者が摘発されなかったという例が枚挙にいとまがないのです。そのため、いかにマスコミに気づかれずに隠密裡に捜査を進めていくかについて神経をすり減らす毎日です。