「ブログで自己の心情を表現すること」

ブログでの表現のありかたについて、とある方の日記欄をお借りしてコメントをやりとりさせていただいていたのですが、ややデリケートな問題でもあり、HPのコメント欄を管理されている方にご迷惑があっても申し訳ありませんので、こちらに書きたいと思います。

はじめに、ことの経緯を書いておきます。

<経緯>

 ある裁判官(以下A氏)が、WEB日記で書評を公表なさった際、自らに男性同性愛について嫌悪感があることを打ち明けた上で、「同性愛者も幸せに過ごしたいと思うのは当たり前で自然であって、他人から悪意のこもった言葉をぶつけられるいわれはない」と思い、「同性愛者のごく普通の日常を描いた作品に接し、考えさせられた」という内容の文章を掲載されたところ、
 B氏(仮名)より「同性愛者のことを気持ちが悪いという印象さえ覚える」と公言することは、裁判官としてはいかがなものか」というコメントが寄せられていた。
 このコメントに対して私(an_accused)が、
「自身が職業人として不誠実であることを明言しているなら格別、WEB上で自らの心情や見解を明らかにし、また、それと異なる見解を持つ者が(平穏な表現の範囲内で)見解を明らかするということについては自由」
「裁判官に対して、自己をニュートラルであるように装うよう求めることは、かえって裁判官のブラックボックス化につながる」
とコメントしたところ、
 C氏から
「an_accused(私)のコメントは、何事にもニュートラルという姿勢が裁判官としての正しい信条であるということを暗示したものであるように読み取れるが、そのことは実現性がある命題なのか?」と、
 またD氏から
「国民が裁判官をブラックボックス化する不利益を考慮してもなお裁判官に対してニュートラルであるように装わせる方が公共の福祉に合致すると考える場合もあるのではないか」
 と、それぞれコメントを受けた。
 私は、C氏に対しては
「その解釈は逆であって、ニュートラルな立場をとることなど出来ないとコメントしたつもりである」と返答し、
 D氏に対しては、
「例えばドイツの裁判官は自らの政治的信条を公表しているが、そのことによって、日本の裁判官よりも彼らの方が裁判の公正が疑われたり裁判官の権威が揺らいでいるとは思えない。裁判の“公正さ”は、裁判官が自己のバイアスを自覚した上で、その判断を論理によって洗練させる努力を惜しまないことによって担保されるもので、“裁判官に対してニュートラルを装うように求めること”により実現されるものではない」
と応答した。
 D氏はこれを受けて、
アメリカにおける判事の任命は強い政治色を帯びているが、日本では『裁判官は、独立して中立・公正な立場に立ってその職務を行わなければならないのであるが、外見上も中立・公正を害さないように自立、自制すべきことが要請される』と判示し、裁判官自身に自ら高い理想を課した例がある(寺西判事補分限裁判)」
との返答があった。

<これを受けて>

 さて、D氏が書いておられるように、例えばアメリカにおいては、州裁判官の任用につき29州が直接選挙で、22州が州司法任用委員会による選抜を行っており、連邦裁判所の裁判官は大統領により指名され上院の助言と承認の上で任命されます。その結果、選挙で候補者の政治信条が争点となったり、任命権者の政治信条と近い人物が登用されたりするなど、裁判官の政治信条がオープンに語られるようですが、裁判官の偏向を非難し裁判の中立公正を疑問視する声が日本におけるそれよりも大きいかといえば、そうではないように思われます。これは、裁判官に一定の政治信条を持っていることを承認した上で、事実認定の的確性と結論の論理的整合性を保たせることによって裁判の中立と裁判所の権威を維持できると考えているからでありましょう。すなわち、裁判官が自らの政治信条を押し隠さなければ裁判の中立公正が維持できないということではないので、自己の信条を表明しても裁判の中立公正を維持することに差し支えはないということです。
 また、仮に日本的“裁判官の中立”が自らの政治信条を表に出さないことであるとしても、今回のA氏のHP上での発言は中立・公正を害するようなものでしょうか。
 D氏の引用した寺西判事補分限裁判決定(最大決平10.12.1)は、現役判事補が当時話題となっていた法案の是非を問う集会に出席し、発言したことが裁判所法52条1号所定の「積極的に政治活動をすること」に該当するとしたものですが、この決定では同時に、
憲法二一条一項の表現の自由基本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、その保障は裁判官にも及び、裁判官も一市民として右自由を有することは当然である。」
 「しかし、右自由も、もとより絶対的なものではなく、憲法上の他の要請により制約を受けることがあるのであって、〜憲法上の特別な地位である裁判官の職にある者の言動については、おのずから一定の制約を免れないというべきである」
 「裁判官に対し「積極的に政治運動をすること」を禁止することは、必然的に裁判官の表現の自由を一定範囲で制約することにはなるが、右制約が合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところである」
とも判示しており、また
「『積極的に政治運動をすること』とは、組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為であって、裁判官の独立及び中立・公正を害するおそれがあるものが、これに該当」し、「具体的行為の該当性を判断するに当たっては、その行為の内容、その行為の行われるに至った経緯、行われた場所等の客観的な事情のほか、その行為をした裁判官の意図等の主観的な事情をも総合的に考慮して決するのが相当である」
としているのであって、裁判官の表現活動を一律に禁止したものではありません。
 A氏の発言が最高裁決定でいうところの「積極的な政治活動」にあたるとは言えず、また、「その人達(同性愛者)はその人達で幸せに過ごしたいと思うのは、ごくごく当たり前で自然なこと」などと前後で述べていることからみても、自らが同性愛をめぐる問題を公正に扱えないことを表明しているとは言えません。
 したがって、議論の対象であるA氏のHP上での発言が裁判官の公正中立を損なうものとは認められないように思われます。

<追記>

 最近では、ある医師がHP上で書き込んだ内容が患者を中傷したとして、そのHPが閉鎖され、当の医師が解雇された事件がありました*1
 たしかに、職業人が自己の職務に不誠実であることを表明すれば、当然顧客は不安になるでしょう。これが医師や法律家など他人の人生に深く関わる者、職務において守秘義務がある者ともなれば、なおさら言動には注意を払うべきです。
 新聞報道によれば、問題となった医師は、HP上で患者を罵倒したり、飲酒した状態で手術に臨んだことを暴露するなどしたとのことです。このように職務遂行において不誠実であることをあからさまにすることは、いたずらに患者の不安をあおり、当該医師のみならず勤務する病院や医師一般に対する信頼を傷つけることになるため、つつしむべきです。
 しかしながら、秘密保持義務に触れない程度にエピソードを披瀝し、また心情を吐露することが直ちに信頼の失墜につながるものではありませんし、一個の人間として意見を表明する自由は認められるべきです。
 WEB上の表現は不特定多数に向けられた表現であり、かつお互いの顔の見えないコミュニケーションでもあります。
 発信者の側が自己の表現の差別性に敏感になるのと同時に、受信者の側も限定された文言をとらまえて批判するのではなく、文意を広く捉えておおらかに受け止めるよう心がけなければ、対面的コミュニケーションでは避けられるかも知れない摩擦に、お互い苦しめられることになるでしょう。

このテーマについては、急がずぼちぼち考えていきます。