事例2題(6月23日追記あり)

 前エントリーでも少し触れましたように、人権擁護法案は司法制度改革の一環として位置付けることができますし、また、差別事象に対する簡易迅速な救済制度が人権擁護法でなければならないというわけでもありません。
 司法制度改革といえば、今年の4月1日から改正行政事件訴訟法が施行されました。
 このうち、新設された「仮の義務付け」(行訴法37条の5)について、少し述べてみます。

「仮の義務付け」とは

 従来から「義務付け訴訟」は“法定外抗告訴訟”として解釈論上認められてはいましたが、現実にはあまり活用されてきませんでした。
 「義務付け」が認められる場合は、「行政が何らかのアクションを起こさないことが違法だ」ということが前提になりますが、事案によっては「不作為が違法=ある処分をすべき」と一義的に決まるものもあるでしょうし、必ずしも一義的には定まらないものもあります。(例えば、廃棄物処理場における不適正な廃棄物保管に対し、処理場の許可取消処分と廃棄物除去命令のどちらを行うべきかについては行政庁の裁量であり、一義的には決められないということです。)
 ですから司法としては、「何もしないのは違法である」とは言えても、行うべき処分が一義的に決まっていない限り、なかなか「義務付け」まで踏み込んで命じることができなかったのです。
 今回の法改正では、「義務付け訴訟」を抗告訴訟の一類型として明文化し(同法3条6項)、行うべき処分が必ずしも一義的に定まっていなくてもよい(「一定の処分」というある程度幅広い要件を満たしていればよい)とすることで「義務付け訴訟」の間口を広げました。さらに

  1. 労働者災害補償保険等の公的保険・年金や生活保護などで、資格認定や保険給付等の処分を求めることが本案判決までの生活の維持に必要である場合
  2. 保育所への入所や通学校の指定の処分を求める場合など、処分がされないまま本案判決までに時間が経過すると、保育や教育など訴訟の本来の目的を実現することが極めて困難になる場合
  3. 特定の日に公共施設の使用許可等の処分を求める場合など、本案判決の確定前に処分がされないと訴えの利益がなくなる場合

 などの場合には「仮の義務付け」(同法37条の5)をも認めることができるようにしたのです。

 この改正を受けて、先日このような決定が徳島地裁から出されました。

<事例1>

藍住の障害女児に入園許可 地裁仮決定「裁量権の乱用」
http://www.topics.or.jp/News/news2005060805.html
 両足に障害を持つ藍住町内の女児(5つ)が同町立幼稚園への入園を拒否されている問題で、女児の保護者が同町を相手取って入園許可を求める「仮の義務付け」を徳島地裁に申し立てていたことに対し、同地裁の阿部正幸裁判長は七日、「不許可としたのは裁量権の乱用」として、園長に入園を認めるよう命じる決定をした。
 決定によると、阿部裁判長は「幼稚園教育は幼児の心身の成長や発達のために重要な教育で、入園申請があった場合は合理的な理由がない限り許可すべき」と位置付け。その上で「障害を有する幼児には、一定の人的、物的な配慮をすることが期待される」とした。
 申し立てのあった女児の移動介助や安全確保などについては「教職員の加配をすれば克服可能」とし、「財政上などの理由から教職員の加配が困難だとはいえない」とした。また、現在は体験入園のため他の園児より早く退園していることについても「必要以上に女児に差別感を抱かせ、成長の障害となる恐れが十分ある」と判断した。
 町側は▽バリアフリーに配慮した施設でなく、施設改修は財政上不可能▽教職員の加配は、財政上困難▽他の園児への教育の質が低下する▽現在認められている体験入園の方が好ましい−などと主張したが、阿部裁判長は「合理的な理由ではない」として退けた。
 この問題では、女児の保護者が二〇〇四年度から正式入園を求めたが、町が拒否。このため、保護者は入園許可を求める訴訟を起こすとともに、「仮の義務付け」を申し立てていた。〇四年五月から、保護者同伴で午前中のみという条件で体験入園をしている。
 地裁決定について、女児の保護者は「うれしい。本人は退園時間まで友達と一緒にいたいと言っているのに、いつも悲しい思いをしながら退園している。町は決定に従ってほしい」と話している。
 これに対し、石川智能藍住町長は「体験入園など町としてできる限り対応してきたつもり。町の言い分が認められなかった。受け入れ態勢を整えなければならない」とした上で、「予算と人事の問題もある。内容をよく検討し、対処したい」と話し、入園許可の具体的な時期については即答を避けた。
 《仮の義務付け》行政事件訴訟法の改正で今年四月から申し立てが可能になった制度。行政事件で仮の決定を求める場合、従来は行政が行った処分の執行停止を求めることしかできなかったが、新制度では行政に対し「入園許可」などの決定を求めることができるようになった。

 このような争訟制度が活用されるようになれば、差別に起因した公権力による人権侵害事件の処理はある程度促進されるでしょう。但しこの事件の場合でもそうですが、ある処分(この場合入園許可決定)を行うためには人員の加配や施設改修など予算を含む種々の措置が伴いますから、どこまで「義務付け」が認められるべきなのかについては今後事例が積み重ねられる中ではっきりしてくることになるだろうと思います。

 ところで、人権侵害事象は本件のような継続的関係の下で現われるものだけにとどまらず、一回的な関係において現われてくるものもあります。例えばこのようなケースはどうでしょうか。

<事例2>

視覚障害者の入場拒否 神奈川・江の島の温泉施設
http://www.asahi.com/national/update/0608/TKY200506080349.html?t
神奈川県藤沢市日帰り温泉施設「江の島アイランドスパ」が5月、健常者の付き添いがなかった視覚障害者の男女5人に対し、バリアフリーの施設ではないことや他の客からの苦情などを理由に、利用を拒否していたことが分かった。5人が加入する「東京視力障害者の生活と権利を守る会」は2回にわたり、「社会参加の妨げ」と文書で改善を求めたが、施設側は「健常者の付き添いは必要」としている。
 同会によると、全盲の男性3人と弱視の男女各1人が5月5日、ハイキング帰りに施設を訪れた。窓口の職員や支配人が「施設はバリアフリーになっていない。健常者の付き添いがなければ安全を保証できない」と入場を断った。さらに「障害者に付き添えるスタッフが少なく、以前、視覚障害者が1人で利用した時に『施設が対応せず、客に障害者の世話をさせるのか』と指摘された」と説明。健常者の付き添いは、パンフレットやホームページ(HP)に明記されていなかったという。
 同会は後日、電話で抗議、要望書を出した。その後、先に入場を拒否された弱視全盲の男性2人を含む4人が付き添いの健常者と一緒に施設を利用した。弱視の男性(44)は「単独利用できる他の温泉施設と変わらず問題はなかった」と話す。同会は今月6日に改めて要望書を出した。
 同会事務局長の山城完治さん(48)は「同様施設で門前払いの例はない。視覚障害者を単独で受け入れる工夫もなく、他の客からの苦情を理由に断られれば、社会参加が阻まれる」と改善を訴える。これに対し、アイランドスパの岡本秀樹支配人は「差別で拒否したのではない」と強調。パンフレットやHPで健常者の付き添いを明記していなかった不手際を認め、「表現方法を検討したい」と話す。しかし単独利用については、「プールと床に段差がないなど構造上の問題もあるので、今後も健常者の付き添いをお願いしたい」と理解を求めている。
 厚生労働省社会参加推進室は「視覚障害者だからといって一律に入場制限をするのは好ましくない。健常者と同様に対応してほしい」と話している。

 事例2の「日帰り温泉施設」は民間施設ですし、入浴拒否は継続的関係の下でおこなわれたものではなく一回的なものです。このようなケースにおいて、もしも司法的解決を目指そうとするならば、入浴拒否によって受けた精神的苦痛に対する慰謝料を請求するという事後的な損害回復請求の形式をとらざるを得ないように思われます*1
 原告としては慰謝料が欲しいわけではなく、視覚障碍者にも配慮した施設運営を行って欲しいと訴えたいのですから、不法行為の枠組み(損害賠償)では直接的な問題解決を求めることが困難であるということになります。こういったケースでは、必ずしも司法的解決がなじむとはいえないのかも知れません。

2つの事例を手がかりに

 以上、「どのような解決が望ましいか」という実体判断についてはひとまず脇に置いた上で、紛争処理制度のありようを考える素材として2つの事例を取り上げてみました。
 事例によっては強制的かつ一刀両断的な解決(「義務付け」「差止」「賠償」といったもの)が妥当しない場合もあることを考えれば、任意的かつ柔軟な紛争解決のルート(「あっせん」「調停」「勧告」といったもの)を設けておくことにも一定の合理性があるといえるでしょう。
 ただ、全くの任意に基づく制度では紛争処理機関として充分に機能を果たすことができないということは、「個別労働関係紛争」に関して各都道府県労働局に設置された紛争調整委員会によるあっせん制度*2があるにもかかわらず、新たに労働審判制度*3が創設された*4 ということからも窺い知ることができるように思われます *5

追記(6月23日)

障害女児が初通園 藍住町受け入れ、バリアフリー進める
http://www.topics.or.jp/News/news2005062205.html
 藍住町立幼稚園に入園を拒否され、徳島地裁の仮の決定を受けて入園が決まった両足に障害のある同町内の女児(5つ)が二十一日、母親(38)とともに同町住吉の藍住北幼稚園に初通園した。女児は「友達とずっと一緒にいられて楽しい」とはしゃいでいた。
 午前八時すぎ、歩行器を使って同幼稚園に来た女児は、玄関で玉川三代園長から「おはよう」と声を掛けられると、「おはようございます」と笑顔で返事した。二階の教室で担任教諭が「新しいお友達です」とクラスの園児に紹介。少し緊張気味の女児に級友一人一人があいさつした。女児は、みんなとしゃべりながら昼食を取った後、退園時間の午後一時半ごろまで園庭で遊ぶなどして帰宅した。
 女児は昨年五月から約一年間、週三回、藍住東幼稚園で午前中だけの体験入園をしていたが、通常の退園時間まで残る本格通園は初めて。
 母親は「本人は朝六時から起きて、喜んでいた。本格通園まで長かったけど、願いがかない、親としてもうれしい」と感激の様子。玉川園長は「みんなと同じ幼稚園生活が送れるようにしたい」と話した。
 同園は、玄関に仮設スロープを設置するなど順次バリアフリー化を進める。七月からは加配教諭を配属する予定で、町が募集している。
 この女児の入園問題は、保護者が求めた女児の正式入園を町が拒否したため、保護者が四月、徳島地裁に入園許可を求める訴訟を起こすとともに、「仮の義務付け」を申し立てた。今月七日、地裁が入園を認めるよう命じる仮の決定をしたことを受け、保護者は藍住北幼稚園に入園願書を提出。町は十三日に受け入れを決めた。(徳島新聞2005年6月22日付)

 事例1の続報です。どうやら町は即時抗告をしなかったようですね。

*1:小樽市の外国人入浴拒否事件では、3回にわたる入浴拒否に対する慰謝料請求という形で訴えが起こされています。

*2:個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律

*3:労働審判法」

*4:労働審判法は平成16年4月28日に可決成立した法律で、平成18年4月ころに施行される見込み。

*5:http://d.hatena.ne.jp/an_accused/20050331

「対案」に期待できるのか

 「真の人権擁護を考える懇談会」の座長をおつとめになられている古屋圭司衆議院議員のホームページに、次のような一文がありました。

日本の自由と民主主義を守るために(マンスリーIIC 6月号インタビュー)
平成17年6月1日
http://www.furuya-keiji.jp/activity_diet/17_06_01.html
 「座長」ということですから、古屋先生のお考えは「真の人権擁護を考える懇談会」の主流となるご意見(つまり、与党内に存在する見解の主要な一つ)でしょうから、一応検討してみたいと思います。

人権擁護法案
 かつて国会で廃案になった法案が、突然降って湧いたように登場してきました。

 この人は本当に国会議員なのでしょうか。本法案は採決によって否決された結果廃案となったものではなく、第157回国会が衆議院の解散により終了したため、自動的に廃案となったものです(156回国会までは継続審議)。従って、政府が改めて提出しなおしその成立を企図するのは当然です*1
 ちなみに、同国会で同様の理由により「廃案となった法案」に「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案」がありますが、これは第159回国会で可決成立しています。古屋先生は「曽(そう)祖父(そふ)の代から国会議員を務めている名家のご出身」だそうですから、「衆院解散により自動的に廃案になった内閣提出法案が、もう一度再提出されること」が「突然降って湧いた」と形容しうるほど不自然なことなのか、ご家族にでもお尋ねになってみられればよいかと思います。

 この発端は、平成三年に国連で人種差別等の人権侵害への対応が決議されたことからでした。その後、日本でも審議されましたが、平成十年、政府は“我が国は、既存の法制度や立法以外の措置によって差別行為を抑制することができないほど明白な人種差別行為が行われている状況ではなく、人種差別禁止法等の立法措置が必要とは考えていない”との正式見解を出しました。その後、当時の連立与党のプロジェクトチームにて政治的配慮もあって、本法案が提出されました。しかし、いわゆる「メディア規制」の可否以外は、本法案の根幹について議論されることなく廃案となりました。

 「本法案の根幹」とやらについて議論されなかったのは、古屋先生のご推測どおり“政治的配慮”によるものなのか、それとも「そもそもそんなものは論点としてくだらない」からなのかわかりません。当時の内閣を構成する重要な一員であった安倍晋三先生(官房副長官)や平沼赳夫先生(経済産業大臣)にでもお尋ねになってみてください。前回は賛成して今回あえて反対するには、かなりの積極的な理由がおありなのでしょうから。

 再度登場した法案の骨子は以前と変わりありませんが、詳細に調べますと、人権侵害の定義「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」が極めて曖昧(あいまい)で、根本的に問題があります。
 それは、“恣意(しい)的な解釈が可能”であり、人権侵害された人やその疑いがある人を救う法案ではないからです。人権侵害への擁護は断固行なっていかなくてはなりません。しかし、この法案は自由と民主主義、表現の自由を侵害する恐れがあり、悪用される危険性があるのです。

 何を以って“あいまい”と呼ぶのか、また、どこまで定義付けが行われれば“明確”と評価しうるのか、理解なさった上で古屋先生はこのようなことを仰っておられるのでしょうか。

 試みに「名誉毀損」(刑法230条)について考えてみましょう。
 刑法第230条は、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する」と定めています。名誉とは、人の「社会的評価」であり、毀損とは「害すること」つまり「人の社会的評価を低下させること」を意味するとされています。もしも大新聞が「小泉政権韓国漁船問題で韓国に対し極端な譲歩をした。」と大々的に報道すれば、当然小泉首相の社会的評価は低下しますから、名誉毀損等が成立してしまう可能性があります。ところがこれでは表現の自由を制限してしまうおそれがありますね。
 そこで刑法は「行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」(第230条の2第1項)と定めています。
 つまり

  1. 表現された事実が、公共の利害に関する事実にあたり(「公共性」の要件)
  2. 目的が専ら公益目的であり(「公益目的」の要件)
  3. 真実の証明があれば(「真実性」の要件)

これを「罰しない」としているのです。
 また名誉毀損故意犯ですから、「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実だと誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らして相当の理由があるときは、故意がなく、名誉毀損罪には該当しない」とされています(最判昭和44年6月25日)。
 また、名誉毀損については刑事的側面のみならず、民事的側面(不法行為責任)もありますが、民法第709条・第710条の適用にあたっても、以上述べてきたような刑法の考え方がそのまま適用されますし(最判昭和41年6月23日)*2不法行為の適用にあたっては表現の自由を十分に保護するため「行為者において事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定される」(最判昭和41年6月23日)として、「相当な理由」があれば過失の存在も否定し損害賠償責任を負わないとされています。

 「個人の人格的権利」と「表現の自由」については、このような調整が行われているわけですが、ここで使用されている概念(「公然」「名誉」「毀損」「公益」など)は、はたして古屋先生にご満足いただけるほど“明確”なものなのでしょうか。

 人権擁護法案に規定されるところの「人権を侵害する行為」とは「法的権利が侵害されること」に他なりません(法務省自民党法務部会における法案趣旨説明で「人権を侵害する行為とは、民事上の不法行為の枠組みを超えるものではない」と述べているはずです)。「名誉毀損の“あいまいさ”」を許容できる(少なくとも現行法秩序は許容し、その“あいまいさ”を有効に機能させている)のに本法案の「人権を侵害する行為の“あいまいさ”」を許容できないのはなぜなのでしょうか*3
 どうも、「あいまいだから認められない」という主張そのものの“あいまいさ”についてはずいぶんと無頓着なようですが、「対案」ではどこまで“明確”になさるおつもりなのか、興味深いところです。

 このような法案を議論もなく、国会に提出していくことは日本の民主主義を破壊する行為です。

 私たちは行動を起こしました。

 議論し行動なさるのは国会議員の本分ですから、大いになさっていただきたいと思います。

 四月五日、「真の人権擁護を考える懇談会」を発足させ、会長に平沼赳夫衆議院議員、顧問に安倍晋三衆議院議員等、三十人を越える自民党の国会議員が結集し、私は座長を務めることになりました。

 この懇談会では、いくつかの問題点を指摘しました。

 第一点は、人権委員会法務省の外局として人権委員会国家行政組織法三条委員会として設け、公正取引委員会のように準司法的な強力な権限を付与されることです。これが実現しますと、人権委員会は、特別救済の名の下に、出頭要請、事情聴取、立ち入り検査などの強制力を発揮し、拒否すれば罰則が適用されます。

 3条機関であることはそのとおりですが、「公正取引委員会のように司法的な強力な権限」が付与されているといえるのかについては疑問です。
 人権委員会の行為のうち、純粋に「準司法的手続」と呼びうるのは「調停及び仲裁」です。これはあくまでも当事者の合意によって成立する手続です。仲裁については手続参加を強制されることはありませんし、調停については仮に職権によって手続が開始されても調停案を受け入れることを強制されることはありません。これは、職権によって手続が開始され、第一審判決と同等の効力を有する公取委の審決等とは明らかに異なるものです。
 また、「訴訟への補助参加」も、裁判所に判断を仰ごうという制度ですから、「準司法的な強力な権限」とはいえません。

 なお、特別調査(立入検査等)について「正当な理由があれば拒否できる」ことに言及していないのは不正確であると言わざるを得ません。そして、「拒否理由の正当性」については裁判所が判断するので(非訟事件手続法第161条以下)、人権委員会が単独で過料の適用を決定することはできません。

 裁判所の令状なしに強制執行が可能となることで、国民に畏怖(いふ)の念を与え、自由な言論を抑圧する恐れが出てきます。準司法機関とするならば、本来であれば司法制度改革を通じて対応していくべきものだと思います。

 直接的な強制執行は行えず、間接的な強制は非訟事件手続法により裁判所の決定を待たねばならないことは既に述べたとおりです。従って古屋先生のご見解は不正確であり、徒に「国民に畏怖の念を与え」るものと言わざるを得ません。
 「司法制度改革を通じて対応すべき」というご見解はそのとおりです。しかし、人権擁護法による調停・仲裁手続や訴訟参加手続の創設はまさしく「司法制度改革」であるわけですから、「今さら何を仰ってるんだ」と首を傾げてしまいます。

<日本社会の秩序を壊す悪しき人権擁護法案
 第二点は、人権擁護委員の選考規定の不透明さです。現行の委員は一万四千人いますが、地域の名士になっていただいているのが実情です。加えて六千人増員するという法案であり、そこには国籍すら規定されておらず、偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受ける恐れがあるのです。

 現行法では委員の政治活動が禁止されていますが、新法案では禁止と明記してありません。法務省に問い合わせると、準公務員の扱いだから特に規定していないといいます。しかし、なんらかの目的意識や強大な権力を持った委員が六千人増えることは、事実上、政治・思想活動と等しい活動が可能であり、この法案が成立すると、自由と民主主義、表現の自由が損(そこ)なわれ、国家にとって大変に危険な状況が生まれます。

 もしも「現行法の定員及び実員がともに1万4千人であり、そして今回の法案は定員を2万人としている」というのであれば、古屋先生のご懸念は正鵠を射ていると言えるでしょう。ところが現行の人権擁護委員法も「上限を2万人とする」と定められた上で(人権擁護委員法第4条)、実員が1万4千人程度になっているのです。
 にもかかわらず、本法案が「上限を2万人とする」としていることが直ちに「6千人が増員され、実員も2万人となる」ことを意味するとお考えになる理由は何か、ぜひお聞かせいただきたいところです。
 なお、「準公務員」ではなく「非常勤の一般職国家公務員」です。一般職国家公務員は積極的な政治活動が禁止されており、違反すれば3年以下の懲役又は10万円以下の罰金が科せられます。ちなみに、人権擁護委員法における「政治活動の禁止」は、解嘱理由ではあっても罰則規定はありません。ひょっとして、罰則規定のない「人権擁護委員法による規制」よりも、懲役刑も含んだ罰則規定のある「国家公務員法による規制」のほうがゆるやかであるとお考えなのでしょうか(よもやそんなことはないと思いますが、この文面ではそう読み取れてしまいます。)。

 また、人権擁護委員は地方議会の意見を聴いたうえで市町村長が推薦するものとされているのですが、このような手続によってもなお「偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受ける恐れがある」と仰るのは、一体どのような理由があるからなのでしょうか。
 もしも、「議会や首長の推薦などアテにならない」というのであれば、「国会の判断などアテにならない」と言われても仕方がなく、つまるところ「古屋先生たちのご判断もアテにはならない」ということになるでしょう。試しに、「あなた方の意見に基づいていたら、偏執的な思想の持ち主や特定団体等の影響を強く受けた者が選出される恐れがあるから信用できない」と地元の地方議員や首長の皆さんに仰ってみられたらどうでしょう。一体どのような反応が返ってくるでしょうね。
 そもそも、公取委など独立行政委員会の委員同意(国会の議決事項)についてはどのようにお考えなのでしょうか。国会議員たる古屋先生から「議会や首長の判断がアテにならない」と自白されても、一国民としてはどう受け止めてよいのやらわかりません。「アテにできる制度」とはどのようなものか、ぜひ立法府を構成する一員としてご見解を詳らかにしていただきたいと思います*4
 なお私は、人権擁護委員に国籍要件(「地方参政権」などという回りくどい表現ではなく、日本国籍)を設けてしかるべきだと考えておりますので、国籍要件については古屋先生と見解を異にするわけではありません。ただ、国会議員のご見解にしてはずいぶんな記述が散見されたため、あえてコメントさせていただきました。

 言論に生きている文化人、メディア関係者はもちろん、私たち政治家も、不当な差別を受ける可能性が高くなり、あわせて、国民の日常生活にも大きな影響を与える法案なのです。

 例えば、これまでノーネクタイやペットお断りの店、刺青(いれずみ)お断りの銭湯などでも、人権に関わる問題だと訴えられると、委員会が救済手続きを開始する可能性が出てきます。

 まず、「ノーネクタイ」について。
 ドレスコードとは、周囲の雰囲気を損なわないために、場所や時間帯に合わせた服装をするよう求めることを指すのですから、民族衣装の正装も許容されるのではないでしょうか。で、「ノーネクタイの店」がどうして「人権侵害を行っている」と批判されうると仰るのでしょうか。代々国会議員を輩出する名家のご出身である古屋先生からご覧になって、紋付羽織袴は無作法にあたるとお考えなのでしょうか。

 次に「ペットお断りの店」について。
 古屋先生は国会議員ですから、2003年10月1日に「身体障害者補助犬法」が施行され、不特定多数の者が利用する民間の施設で、盲導犬を含む補助犬の受け入れを拒んではならなくなったことは当然ご存知でしょう。もちろん、補助犬の認定を受けていない犬の同伴を拒むことが何ら「人権侵害」にあたらないことは、わざわざご説明さしあげるまでもありませんね。
 ところで、「障害者基本法」は基本理念で「全ての障害者は社会を構成する一員として、あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられる(同法第3条第2項)」とし、ノーマライゼーションの理念に基づく社会づくりが国を挙げて進められております。国会議員である古屋先生も国政を担う一員としてノーマライゼーションの理念実現を推進する立場におられるわけですが、古屋先生はどのような意図で「ペットお断りの店が人権に関わる問題だと訴えられかねない」との危惧を表明なさっておられるのでしょうか。(ひょっとして、、、補助犬とペットとを同一視しているのではないでしょうね。“真の人権擁護を考える”国会議員の先生が、まさかねえ。)
 まあ、本当に高級店なら補助犬をペットと同一視するような不見識な人物が出入りするとは思えませんので、先生の危惧するような事態は起こり得ないと思うのですが。

 次に、「入れ墨お断り」について。
 「入れ墨」は、自らを一般の社会成員と隔てることを意図して行われるものであり、自ら選択して暴力団組織等に加入している(た)ことを示すものです。従って、公衆浴場等において入れ墨を施した裸体をさらす行為は、暴力集団の力を背景にして無理を通そうとする人物であることを自ら積極的に周囲に表明する行為ですから、一概に「不当な差別である」ということはできません。

 お年寄りが年金で経営する小さなアパートでも、外国人お断りという入居条件に対して委員会が特別救済措置を取り、家賃を滞納する素性の知れない人たちを排斥できないことにもなりかねません。

 「家賃を滞納する素性の知れない人たち」は、日本人であると外国人であるとを問わず存在します。だからこそ「家賃の滞納に備えて保証金(敷金等)を契約時に徴収する」という社会慣行があり、保証人制度があるのではないでしょうか。外国人を一律に「家賃を滞納する素性の知れない人たち」と切り捨てる古屋先生のご見識には恐れ入るばかりです。

 また、教育現場にも大きな影響を及ぼします。平成十一年に国旗・国歌法が成立し、国旗を掲揚し、国歌斉唱するという教育指導要領に基づく先生の指導に、「歌わない自由もある。人権を侵害された」という生徒や父兄の偏った主張に対して、目的意識を持った人権擁護委員がことさら大きく取り上げて救済を申請した場合、調査せざるを得なくなります。対象となった先生はテレビや新聞で大きく批判され、その挙句に地位すら剥奪(はくだつ)されるかも知れません。

 「国旗掲揚・国歌斉唱」については、裁判所は「卒業式等において国歌を斉唱するよう指導することは、国歌を尊重する態度を育てるという教育目的に沿うほか、学校生活に有意義な変化や折り目を付け、集団への所属感を深めるという目的にも沿うことからすれば、卒業式等において国歌斉唱を実施することは、正当な教育目的に対して、一定の教育効果が期待できる教育活動ということができる。」などと判示し、片っ端から国(及び都道府県など)側の主張を認めてきたところです。数々の裁判例を乗り越え、人権委員会があえて教員に「国旗掲揚・国家斉唱を拒否する自由」を認めてしまうのではないか、と危惧なさる根拠を、少なくとも古屋先生の論考の中からは見出すことはできません。

 「間違いの場合は訂正を発表する」と法務省は修正案を出していますが、それは事後の処置であり、人権の回復は決してできません。企業に公正取引委員会が立ち入り調査を行なっただけで新聞に大きく報道され、企業自体に問題がない場合でも、その後、入札が排斥されるなどの被害を受け、場合によっては倒産するケースもあるのです。

 一般的な「指名停止基準」によれば、「入札が排斥される(指名停止の意味と思われる)」のは公取委から

  1. 「排除勧告の応諾があったとき」
  2. 「課徴金納付命令が出されたとき」
  3. 刑事告発がなされたとき」

などであって、公取委が立ち入り調査を行っただけでは指名停止などにはなりません。もちろん、「刑が確定するまでは無罪が推定されるのだから、刑事告発がなされただけで倒産に追い込まれたりするのは許せない」という主張には傾聴すべきものがありますが、それはひとえにマスメディアによる「犯人視報道」「実名報道」の問題であり、本法案とは無関係でしょう。「刑や処分が確定するまで、実名での事件報道を許してはならない」とでもしない限り「報道被害」は避けられませんから、この際ぜひ報道規制の導入を検討なさってはいかがでしょうか(あれ?表現の自由が著しく制限される気もしますが、気のせいですよね。)。

 さらに、北朝鮮による日本人拉致被害者救出活動にも影響を及ぼします。卑劣な北朝鮮の犯罪に対して、「金正日はけしからん」という意見を北朝鮮に共感を持つ委員や朝鮮総連や北に近いグループが聞きつけ、「うちの首領さまを批判した。人権侵害だ」と、強烈に繰り返して訴えた場合、救済手続きを開始することもありえるのです。

 私は「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」事務局長を務めていますが、議連連盟や家族会による被害者の救出活動そのものが制限される可能性も出てきます。同胞を救出することができない、こんなばかなことが許されていいのでしょうか。KGBゲシュタポなどの秘密警察が日本に出現するといっても過言ではありません。

 「公人である金正日(なにしろ一国の指導者です)」に対する正当な批判が「人権侵害」に当たらないのは前述のとおりです。従って北朝鮮批判が「金正日の人権を侵害する行為」と認定される見込みは皆無です。また、「私の崇拝する金正日に対する批判は、私の心を傷つけた」という主張が失当であるのは、「小泉首相靖国参拝は、原告らの具体的権利(宗教的人格権)を損なうものではない」のと同様です。「具体的な権利の侵害がある(明白に想定される)からこそ、衝突する権利との調整が図られる」という大原則を無視して、「あれも差別だ、これも差別だ、といって勧告される」と騒ぎ立てるのは軽佻と言わざるを得ません。「誰かが勝手に主張すること」と「国家機関がその主張を認めること」には東シナ海より大きな開きがあるということを忘れてもらっては困ります。

 拉致被害者およびそのご家族の皆さんのご心痛は察するに余りあるものですし、古屋先生をはじめ多くの方々が被害者やそのご家族のためにご尽力なさっておられることには純粋に敬意を表します。しかし、本法案の成立と拉致被害者の救出活動とをこのように結び付けるのは牽強付会ではないでしょうか。
 「金正日は拉致犯罪の首魁だ。」と指弾する行為は、当然のことながら公益に関わる問題であり、真実性があるのですから、名誉毀損等に問われることはありません。しかし、「朝鮮人はすべて拉致に加担した犯罪者だ。だから朝鮮人○○は犯罪者だ。」と指弾する行為は、名誉毀損・侮辱に該当するおそれがあるでしょう*5。「JR西日本が107名の命を奪う事故を引き起こしたことで民事上は言うに及ばず刑事上の責任を負うとしても、JR駅員の背中を蹴飛ばしてはいけない」「いくら日本政府の政策に不満があっても、日本人留学生を殴ってはいけない」というのと同様です。

 このように極めて大きな問題がある人権擁護法案がなくても、権利侵害を受けた方には現行の司法制度改革をさらに進めることで、対応することが可能なのです。

 高齢者や児童への虐待、家庭内暴力には個別法が立法されており、充分に対応できると思います。また、司法書士などが簡単に裁判の手続きができるADR(裁判外代理制度)を充実し、現行の人権擁護委員の権能を強化し、簡便で公正な司法救済を受けられるようにすることで権利侵害を受けた者は救われると思います。

 私も、「人権侵害事象に対する簡易迅速な救済制度は本法案しかあり得ない」とは考えておりません(おそらく法務省も、そんなことはこれっぽっちも考えていないでしょう)。
 個別法の制定に異論はありませんが、他方、個別法が多数制定されることにより窓口が複雑化してしまったり、同様の業務を行う機関が分散しすぎて人的資源を確保することが困難になったりするといった弊害が生じるおそれがあることも留意していただきたいところです。例えば現在検討されている「高齢者虐待防止法」は調査権限を有する機関を市町村としているようですが、他方児童虐待に関して立入権限を有するのは都道府県(児童相談所)です。また、DV防止法の運用権限を有する者は都道府県(婦人相談所)と警察です。現在でもこのように窓口が多数存在し、人的・社会的資源が分散しているのに、今後障碍者、病人、性的志向に基づく差別を受けている者、宗教勧誘被害、外国人差別などなど種々雑多な人権侵害事象に対して個別的な救済窓口を設けていくということが政策として合理的かというと、そうではないように思われます。むしろ、種々雑多な人権侵害事象に対応する包括的な窓口を設けた上で、さらに深刻かつ多数の被害が生じている人権侵害事象の類型に対して個別法を制定し専門機関を設置するという選択が、制度設計としては合理的なのではないでしょうか。
 また、個別法(DV防止法、児童虐待防止法など)があくまでも被害者に対する行政措置(救護施設での一時保護など)を頂点とする制度設計であるのに対し、人権擁護法案が加害者に対する民事上の請求を頂点とする制度設計であることも、大きな相違点として挙げることができます。つまり、同じ犯罪について刑事上の責任追及と民事上の賠償請求とが並存しているように、同じ虐待事案に対して個別法に基づき被害者の直接的かつ一時的な保護を図りつつ、人権擁護法に基づき民事上の賠償・被害回復を求めていくというような制度相互の連携が行われるということは何ら不自然ではないと思われます。

 ところで、人権擁護法案における調停・仲裁はまさしく古屋先生の仰るところのADRです。「ADRの充実をもって被害者救済を図る」ということは、人権擁護法案と何ら対立するものではないどころか、人権擁護法案の必要性を裏書するようなものなのではないでしょうか。
 また、「現行の人権擁護委員の権能を強化する」とは、いかなるものをお考えなのでしょうか。ただでさえ「人権擁護委員の権限が強大である」という(的外れではあるにせよ)批判が喧しいところにもってきて、このようなご見解を明らかにされる意図がよくわかりません*6

 以上のとおり、古屋先生のご懸念はそのほとんどが杞憂と呼ぶべきものであると言わざるを得ません。本法案が党法務部会における議論の俎上にのぼって2ヶ月以上になるのですから、もっと掘り下げたご見解を示していただけるものと期待しておりましたが、まことに残念です。

<余談>

 ここまでお読みになった方は不思議に思われるかも知れませんが、実は私、一貫して人権擁護法案に反対しています。にもかかわらず、なぜ上述のような見解を申し上げるのかといいますと、反対派の主流を形成する議論にどうしてもなじむことができないからです。

 私の反対する理由は主に

  1. 「私的な糾弾行為」を制限する条項がない。
  2. 人権委員会の行う勧告」に不服があるときのための司法審査手続が明確でない。
  3. 「勧告の公表」は名誉刑的色彩が強いので、安易に採用すべきではない。

の3点です。

 本法案の土台となった人権擁護推進審議会には、次のような発言が見られます。

 戦後,人権思想というのは戦前とは根本的に違ってきたと思います。しかしなお差別が強く残ってきました。そして,京都のオールロマンス事件を機に,運動は行政糾弾へと展開していくのですけれども,行政糾弾というもの,これはかなり熾烈なものであったと思います。法務省でも交渉なるものが行われてきたのですけれども,昭和60年代に入ってもそれはかなり強烈なものでした。しかし,心理的,物理的環境も大きく改善し,だんだん救済制度が整備されてきており,今度飛躍的に人権制度が変わろうとしている,そういう中で自力救済的な色彩を残しているものをどうするのかということはやはり考えていかないといけないと思うのです。先ほど申し上げたように,自力救済的なものがおのずから存在価値をなくしていくような状況にしていくことが近代国家の使命でありまして,我々はそういう努力をしてきている。そして,今度は画期的な人権制度をつくろうとしている。そのように時代が転換していくときに,行き過ぎることを非常に内在している自力救済行為をなお残すのかという観点からこの問題は考えていかないといけない。近代国家にとっては,そういうものを残していくということは本当は恥ずかしいことでもあるわけなのですね。
 私は,そういう意味からいうと,今後こういった行為がどう変化していっても,その本質が変わらない限りは,我々はそういうものをいつまでも認めていってはいけないのではないかということを強く感じます。例えば第三者を参加させても,それは第三者が主催するわけではないわけですから,おのずからその限界があるわけです。私はかねてから,被害者団体というものは,一般啓発,つまり,差別というものはそれを受ける側にとってこんなに大きな影響を与えるものですよ,あなた方はそういうことを御存じですか,その一言の持つ意味を御存じですかという,一般啓発にこそ向けられるべきものであって,個別啓発に向けられるときには,非常に問題が出てくると考えてきました。もちろん,そういうものをやるやらないを決めるのは,それをやっておられる運動団体ですけれども,そういう社会情勢の大きな変化,しかも今は一つの大きなターニングポイントに来ているということはよくお考えになっていかないといけないと考えます。
人権擁護推進審議会第61回会議議事録(平成13年4月16日)より抜粋

 “行き過ぎた糾弾”により、多くの人々が傷つけられてきました。そして、そこから派生した「同和はコワい」というイメージを利用して企業などに不当な要求(エセ同和行為)を行う輩が今もなお蔓延っています(まるで暴力団や総会屋のようです)。人権侵害を簡易迅速に処理できるような法制度が整備されれば、「私的糾弾」を正当化する根拠をなくしていくことができます*7。本法案は、「糾弾」を撲滅するためにこそ設計され、運用されなければならないのです。単に「反対」と主張するだけの方々は、自称被害者団体が私的糾弾を行いかえって他人の人権を侵害しているという現状を結果的に追認することになりかねないことについて、もっと自覚的であるべきではないでしょうか。

 国会議員として「対案」を世に問うお立場である古屋先生をはじめとする皆様におかれましては、大いにご議論を重ねていただいた上で、「よりよき対案」をお示しになられますことを期待いたします。

*1:それを審議するのは議院の役割ですから、議論もせず直ちに可決せよと述べているわけではありません。念のため

*2:もっとも、民法不法行為の規定は名誉毀損と侮辱を区別していませんし、過失であっても損害賠償義務が発生します。

*3:公権力の行使たる「特別調査」の対象については、法案第42条においてさらに限定されています。もちろんその限定の程度については議論の余地があると思いますが、私にはこの限定が刑事上の定義より“あいまい”だとは思えません

*4:なお、これは人権擁護法案だけの問題ではありません。人権委員・人権擁護委員の選出過程は、法律・条例の制定過程とほぼ同じなのですから。

*5:もちろん朝鮮人○○が拉致事件に関与していると強く疑われる場合はそうではありません。また、拉致以外の犯罪に関与している場合については、別途批判の対象となりうるでしょう。

*6:ちなみに、人権擁護法案において人権擁護委員の権能はほとんど強化されておりません。強化されたのは事務局、すなわち法務局職員の調査権限です。

*7:例えば債務の取立てについては厳しい規制があり、特定調停や破産手続の開始とともに取立行為そのものも大幅に制約されます。糾弾を受けるおそれのあるものが人権委員会に調停等を申し立てることで、その後の私的交渉が大幅に制限され一定の規律の下での話し合いが確保されるようになるならば、「糾弾による人権侵害」を抑制することになりはしないでしょうか。本法案に疑問を抱いておられる皆さんがなぜ悪用の危険性(しかも荒唐無稽な想像)ばかり言い立て、自らの権利保護のために役立つ法制度へと作り変えることを考えないのか、私には理解できません。

「対案」が出てくるらしい。

人権委の権限縮小検討 自民反対派、党内調整へ
 政府の人権擁護法案に反対する自民党議員でつくる「真の人権擁護を考える懇談会」(会長・平沼赳夫経産相)は27日午後、党本部で開いた会合で同法案の対案づくりについて詰めの協議をした。来週から党執行部との調整を本格化させる方針。
 対案では、人権救済機関として設置される「人権委員会」は出頭要請や立ち入り検査などが可能で、権限が強大すぎるとして(1)法案通り、公正取引委員会などと同じく国家行政組織法3条を根拠に設置するが、権限を縮小する(2)同8条に基づいた審議機関とし独立性を弱めた組織にする−−の2案を検討。
 また、人権侵害を調査する「人権擁護委員」の選任基準については、日本国籍を持つ者に限定する国籍条項を設ける方向。ただ公明党は国籍条項に否定的なことから、自民党内の推進派の一部では、北朝鮮による拉致問題解決に支障が出ることを懸念する反対派に配慮し、「国交のある国」とする案も浮上している。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=poli&NWID=2005052701003870

 政府案の対案を作ろうとしても、時間的制約がありますからねえ。

 (1)は、要するに「特別調査」について、なくしてしまうか虐待に対象を限定するってことでしょう。後者なら理解できます。差別助長行為に対する特別調査の必要性などについては議論の余地があるなあと思っていましたから。でも全部なくしちゃうとなると、個別法の網から漏れた領域で生じた虐待などに対応できませんから、やはり「特別調査」は設けておいたほうがいいんじゃないかと思いますが。
 まあ、法務省案から引き算するだけですから、考えるのも簡単でしょうね。

 (2)については、これだけではよくわかりませんね。まず「8条機関」とは、国の行政機関に附属し、その長の諮問に応じて、特別の事項を調査、審議する合議制の機関をいい、国家行政組織法8条の「法律又は政令の定めるところにより、重要事項に関する調査審議、不服審査その他学識経験を有する者等の合議により処理することが適当な事務をつかさどらせるための合議制の機関を置くことができる」との規定を根拠に行政機関に設置されるものを言います。従って政策決定の責任はあくまでも大臣にあり、8条機関にはないとされていますが、電波監理審議会など、例外的にその答申が大臣の意思決定を法的に拘束するものもあります(参与機関)。
 委員の任命については、先に例として挙げた電波監理審議会のように独立行政委員会並みの選任手続を定めたものもあれば、中央教育審議会のように実質上関係団体から推薦を受けた者を文部科学大臣が任命するものもあります。委員は原則として非常勤です。
 審議会の庶務については、基本的に所管府省内の既存部局が担当するものとされておりますので、おそらく現行の人権擁護局が担当するということになるでしょう。
 8条機関はバリエーションが豊富ですから、対案の概要が明らかにされないことには検討のしようがないのですが、どのような形になるにせよ、調査権限は大臣に帰属することになりますね(審議会は大臣の諮問に対して答申するものであって自ら調査したりするものではありませんから)。
 ところで、訴訟参加手続が設けられるとしたら、被告が国の場合どうなるんでしょう。原告補助参加人と被告のどちらも訟務検事ってことになるんでしょうか?
 
 いずれの案も私の主張(「糾弾行為を制限する規定を置き、公的紛争処理の利用を促進すべきだ」と「上訴手続を明記し、誤審からの救済を保障すべきだ」)とはすれ違っていますから、私にとってはあまり魅力的な対案にはならないような気がします。

ある無罪判決

<解放同盟全国連支部幹部に無罪=恐喝で起訴「相当な権利行使」−大阪地裁>
従業員を解雇した印刷会社に押し掛け「部落差別」と抗議し、現金を脅し取ったとして、恐喝罪に問われた部落解放同盟全国連合会寝屋川支部支部長滝口敏明被告(69)ら幹部4人に対する判決が25日、大阪地裁であった。西田真基裁判長は「会社側に理不尽な対応があり、社会通念上相当範囲内の権利行使だった」として、4人にいずれも無罪(求刑懲役2年〜1年6月)を言い渡した。(時事通信 2005/05/25-19:12)

う〜ん。

  1. 無罪がでるなんてよほど無理スジの事件だったのかな。もしそうなら災難でしたね。
  2. とはいえ、まだ地裁だからね。

ということに尽きるのですが、この時事通信の記事以降、詳報が出てこないようですので、わからないなりに感想をもう少し書き留めておきたいと思います。

権利行使と恐喝罪

まず、恐喝罪とは、

刑法第249条
 人を恐喝して財物を交付させたものは、10年以下の懲役に処する。
第二項
 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

なんですけど、物ないし利益に関する使用収益処分という財産権の事実的機能を害され財産上の損害が発生したと認められれば恐喝罪として処罰しうるのですが、権利の範囲内で、その方法が社会通念上是認されるような場合(社会的に相当)であれば、権利行使として違法性が阻却されます。なお、客観的に権利が存在するか否かの判断が困難な場合、権利者が権利の存在を確信し、そう信じるに付き相当な理由がある場合も、方法が社会通念上是認すべき場合であれば違法性は阻却されるとされています。

 もし被告人に判示弁償金を要求する権利があつてその権利実行の為、本件行為にでたものでありしかもそれが権利行使の範囲内に属することであるとすれば被告人の本件所為は時に他の犯罪を構成することがあつても直ちに恐喝罪に問擬することはできない。
 しかしまた、被告人が単に権利行使に藉口しあるいはこれに仮託して本件行為にでたものであるとすれば該権利の有無にかかわらず、被告人の本件所為は恐喝罪を構成するものといわなければならない。(最二小判 昭和26年6月1日)

 他人に対して権利を有する者が、その権利を実行することは、その権利の範囲内であり且つその方法が社会通念上一般に忍溶〔ママ〕すべきものと認められる程度を超えない限り、何等違法の問題を生じないけれども、右の範囲程度を逸脱するときは違法となり、恐喝罪の成立することがあるものと解するを相当とする。(最二小判 昭和30年10月14日)

 本件に関する概要を知るには、先に挙げた記事と、島田氏らの所属団体(部落解放同盟全国連合会)のホームページによるほかありませんので、こちらを参考にさせていただくとします。

2003年3月、アルバイトで生活していた寝屋川支部の島田青年部長が、職安でかつてやったことのある印刷の仕事で「正社員」の募集をみつけ、メタルカラーという会社に就職しました。島田君は就職できたことを喜び、仕事に励んでいましたが、仕事中に段差でつまづき、はずみで腰を痛めてしまいました。痛みをがまんして働いていましたが、痛みがひどくなり2日間、仕事を休みました。
 すると、会社の課長がわざわざ島田君宅を訪問し、「明日からこなくていい」とクビを通告、さらに労災を訴える島田君にたいして「誰も見ていないから労災は認めない」というとんでもない不当労働行為をおこないました。
 島田君は労基署に相談し、「会社と話をして、事情を聞いてきてください」との指導をうけ、さらに寝屋川支部に相談。瀧口支部長、伊地知副支部長、木邨事務局長とともに4人で会社と交渉しました。会社は労災を認め、保障をだすことで円満に解決しました。
 ところが、この円満解決から1ヶ月以上たってから、大阪府警公安3課の刑事が会社に押しかけ、会社にウソの「被害届」をださせ、「4人に恐喝された」などという話をデッチあげて5月22日に4人を不当逮捕しました。
http://www.zenkokuren.org/danatu/whatsdanatu.htm

え〜と、問題となるのは、

  1. 島田氏らの行った交渉は、正当な権利行使だったか
  2. 交付を受けた財物(=「保障」)は妥当な内容のものだったのか
  3. 交渉は「円満」と言えるものであったのか

ということになります。(ところで、刑事部ではなく公安部が押しかけてきたのは、全国連が“中核派系”だからでしょうね。当事者も警察も、本件を単なる労使問題だとは考えていないようです。しかしまあ、印刷会社にとってみればまさか中核派と対立することになるとは(というより係わりあうことになるとは)予想もしなかったでしょうね。)

正当な権利に基づく要求だったか

 まず、島田氏らのとった行為の根拠となる権利について。

 寝屋川弾圧粉砕のための民事裁判で全面的勝利判決をかちとりました。大阪地裁は、島田君の訴えを100パーセント認め、以下の通り判決しました。
【主文】 ①島田君は今もメタルカラー社の労働者としての権利を有する。 ②会社は、島田君にたいして去年4月分から判決が確定する日まで、月20万円の給料を払え。  ③この給料支払いについて、仮執行できる。
判決理由の要旨】 ①会社がいう「退職の合意」はなかった。  ②会社側の「島田君の雇用は2カ月間の契約制である」という主張は認められない。島田君は正社員としての採用である。  ③よって、島田君は今現在もメタルカラー社の労働者としての権利をもっている。
http://www.zenkokuren.org/danatu/past/danatu0405_0409.htm

 これを見る限り、島田氏に対する解雇についてはどうやら無効なものだったようです(この民事訴訟が確定したものとしてですが)。会社に対する島田氏らの請求は、一応は正当な権利に基づくものであったといえそうです。

 次に、交付を受けた財物が権利の範囲内であるかどうかについて。

大阪地検は起訴状で、4人は「部落差別による不当解雇の糾弾を装って解雇予告手当を喝取しようと企て」http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no03/f2107.htm

 「解雇予告手当をはるかに上回る財物」であればともかく、「解雇予告手当」となれば、やはり「権利の範囲内」と見るべきですねえ。

社会通念上是認されるような方法だったか

 では、「その方法が社会通念上一般に認容すべきものと認められる程度を超えない」ものであったかどうか、というところですが。

部落解放同盟全国連合会寝屋川支部長の肩書きの名刺を差し出し」「『家まで来とる。部落かどうか確かめに来たんやろ』『部落やから会社をやめさせたんやろ。部落差別やないか』『手当を払わんかい』と怒号し……団体の威力を背景に……畏怖(いふ)・困惑させ……喝取した」などとしている。
http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no03/f2107.htm

う〜ん。
 本件は別に“部落差別”と関連付けなくても、「労働災害で2日欠勤したことを理由に一方的に解雇することは許されない」と主張すれば足りるというか、それ以外ないように思うのですが。「同様の欠勤者が過去には解雇されてこなかったにもかかわらず、今回はなぜか解雇された」というのならともかく。

 島田氏らが本件解雇を「部落差別ではないか」と疑った理由は次のとおりだそうです。

「会社の課長が島田さん宅に解雇を通告にきたこと、それがなぜ部落差別なのか?」との質問にも、「解雇を通告するのにわざわざ家まできたというのは聞いたことがない。会社で解雇を告げるか、電話でいうのが普通だ。相手が部落民だから、わざわざ家まできているのではないか」「部落差別があるのではないかと、疑問を抱くのは当然」とこたえました。
http://www.zenkokuren.org/danatu/past/danatu0411.htm

 ?
 ちょっとよくわからないのですが、会社の課長は、「解雇を通告するために」島田氏宅を訪問したのですよね?被差別部落出身であることを理由として解雇するのであれば、島田氏宅の訪問に先立って“部落地名総鑑”で調べるなりこっそり様子を見に来るなりしていないといけないはずです。また、「解雇を通告するために島田氏宅を訪問したとき、氏の宅とその周辺環境から島田氏が被差別部落出身者であることを看取した。だから解雇は部落差別に基づくものなのだ。」というのであれば、会社側は、被差別部落出身者であるか否かを確認するために解雇(予定)者宅を毎回訪問していることになるはずです。「解雇を通告するのにわざわざ家まできたというのは聞いたことがない。会社で解雇を告げるか、電話でいうのが普通だ。相手が部落民だから、わざわざ家まできているのではないか」という推論は言いがかりに過ぎないとしか思えません。本当に部落差別を根拠に解雇するなら、こっそり調べて電話でクビを切るでしょう。

 このような形で不当解雇と部落差別を結び付けられると、そりゃ会社側としては困惑するでしょう。ひょっとすると「今後も、とんでもない言いがかりを繰り返されるのではないか」と畏怖したかもしれません(なにしろ既に言いがかりだと感じていたでしょうから)。

被糾弾者には、確認・糾弾会の完結時についての目途が与えられない。 反省文や決意表明書の提出、研修の実施、同和問題企業連絡会等への加入、賛助金等の支払い等々確認・糾弾行為を終結させるための謝罪行為が恣意的に求められ、これに応じることを余儀なくされる。(平成元年8月4日付 法務省人権擁護局総務課長通知)

に示されているような「労使紛争が同和問題化することに対する恐怖」を会社側担当者が感じなかったと、また島田氏らが紛争を迅速かつ有利に解決するために「同和はコワい」というイメージを利用しなかったと言い切れるでしょうか。
 本件は不当解雇を行った会社に重大な落ち度があり、他方島田氏には正当な権利があったのですから、その限りにおいて島田氏らのとった行為の違法性はかなりの程度減殺されるとみるべきだと思いますが、完全に阻却されるかどうかについては疑問が残ります。

(なお、判決に対する感想ではないのですが、部落差別があったと非難するなら、きちんとした言質をとってそれを明らかにするなり、同じような欠勤者や労災受傷者の処遇と島田氏の受けた処遇に明らかな差異が見られることを証明するなりして、「労使問題ではなく部落差別問題である」ということを明確にしていただきたいものです。ホームページや新聞記事を読む限り、民事判決にせよ今回の刑事判決にせよ、「不当解雇である」「正当な権利行使である」とは認定されていても「部落差別の結果である」とは認定されていないようです(もしそのような事実認定があれば、堂々と判決文を引用しているでしょう)。今回「刑事責任なし」とされたとはいえ、同和団体が本件でみられたような“こじつけめいたアピール”を続けていれば、いつまで経っても「同和はコワい」という風潮が拭い去れず、「エセ同和」といわれる恐喝を横行させる素地が温存され続けることになるでしょう。それは結局のところ、被差別者に対する抜き難い忌避感情となって跳ね返ってくるのではないでしょうか。)

裁判は、誰が担当しても同じようでなければならないのか

 まあ全然更新していなかったわけですが。
 下書き程度の文章(「公表制度の問題点」とか「メディア規制“だけ”通さないか―奈良女児殺害事件から―」とか、他いくつか)は溜まってきているのですが、なかなか公にする気になれないわけでして。正直なところ、人権擁護法案をめぐる議論の不毛さにウンザリしてきたので、今回は人権擁護法案とは直接関係のない(でも間接的には関係のある)話題を、メモ書きとして少し。

 法秩序を形作る価値の一つに「法的安定性」というものがあります。法は社会成員の生活上の指針となることから、その内容が一定の安定性をもって存続することが求められる、ということです。「裁判所の判決が統一されていること」は、「法的安定性」を維持するために必要な条件です。「訴えても結論がどう転ぶかわからない」ということでは、法は社会生活や商取引の指針たり得ないからです。
 他方、「裁判官の独立」というものも、法秩序を形作る重要な価値として広く承認されています。裁判官が外部からの干渉を受けないことは、やはり恣意的な法適用を防ぐために必要であるからです。
 この「判決が統一されているべきこと」と「裁判官が独立しているべきこと」とは、対立する関係にあるといえます。個々の裁判官が外部からの干渉を受けず個々の良心に従い判決するなら、判決はそれぞれの裁判官の価値観によりさまざまに分かれることになるからです。
 裁判官の独立を維持しつつ判決を統一するために、「上訴」という制度が機能しています。「上訴」は、下級審の判決に不服である当事者が、改めて自己の権利の保護を求めることができるようにした制度ですが、その際上級の裁判所が下級審の判断を審査することで、司法府として統一的な法解釈を示すという機能も果たしています。しかし、この「上訴」という制度によっては、完全に判決を統一することはできません。なぜなら、上訴を行うことは当事者が決定するものであり、仮に上級審が「是正したい」と望んでいても当事者によって事件が上級審に持ち込まれなければ判断を下しえないからです。
 この「不完全な統一性」は、司法府の大きな特徴ということになるかと思いますが、「不完全さ」をどこまで許容するかについては、

「裁判官は国の機関として裁判を行うのであるから、誰がそれを担当しても同じような判断が示されるようになっているはずのものだからである。(略)具体的には、最高裁判所判例がある問題については判例を目安に、それがない問題については裁判官仲間の通説的見解といったものを想定し、自分の考えがそれらからかけ離れていないかを考えながら執務すべきだということになろう」(佐藤文哉*1「裁判官の心構え」『法学セミナー増刊総合特集シリーズ27 現代の裁判』・1984年。)

という見解もあれば、

「良心を中核とする裁判官の全人格を裁判官独立の根底に置こうとするこうした見解は、別言すれば、個々の裁判官の主体性を裁判官独立の基礎とする議論である。わたくしは、これが正しい議論だと考える。わが国でもすぐれた裁判官のあいだにこの種の議論がみられるのは、当然のことである。例えば、石井良三判事が裁判官の主体性の問題として良心を考え、それでなければ裁判の実際から相い去ることははなはだ遠いとされ、中村治朗判事が裁判の客観性をめぐる問題を追求して、「わたしたちにとっては、単なる傍観者や批評家の研究や観察の題目たるにとどまるものではなく、みずからの実践に深く関わり、実践の場において答えを出してゆかなければならない問題なのである」とされ、横川敏雄判事が憲法第七十六条第三項の規定を「切実な実践の指針として把握」するべきことを主張して、「まず裁判官が良心的に―絶えず主体的にこの言葉の意味をかみしめ深めながら―その職にあた」ることが全ての前提だと説かれるのなどが、それである」(団藤重光*2『実践の法理と法理の実践』創文社・1986年。)

という見解もあります。

 この「横並びであるべき」という裁判官像と「主体的であるべき」という裁判官像との狭間で揺れ動いているのが現実の裁判官なのであろうと思うのですが、これをよくあらわしているのが次の発言です。

「裁判官が自分の判断で判決をするのはもちろんですが、その結果の見通しはあるわけです。最高裁判所に上告されて、また戻ってくる*3ということでは自分の判断をしても、それは自分の独りよがりで、結局は当事者に長い間迷惑をかけることになるという問題もありますし、戻ってきて他の人の負担を増やすという問題もありますから、上告審の動向と自分の法律的な見解の中で、常に思い悩んで判断する。それは裁判官の常だと思います。最高裁判所判例の拘束性を過大に評価して、萎縮しているのではないかと言われてしまいますが、現場としては当事者に与える影響を考えます。(中略)自分の理論や判断基準とともに、当事者に与える影響も考えますから、裁判官の判断というのは、個別具体的に検討していくしかないと思います。」(座談会「裁判官をしばってきたもの―独立性の確保から司法改革へ」『月間 司法改革』第9号(2000年)における守屋克彦氏発言*4

 「個別具体的な事件と上級審の判決との間の視線の往復」が、裁判官(に限らず法曹一般)の営為であり、それ以上でもそれ以下でもない、というより、あるべきでない、と思います。そして、果たして「裁判官仲間の通説的見解」を視線の往復先に加える必要があるのかというと、はなはだ疑問です。そもそも「裁判官仲間の通説的見解」というものを、どうやって推し量るのでしょう。公刊物未登載の裁判例が数多く存在する中、結局は裁判官会同・協議会や、個別のレファレンスサービスで示される事務総局見解に従うことが、つまるところ「裁判官仲間の通説的見解」に配慮するということになるのではないでしょうか。

 また、「結局は当事者に長い間迷惑をかけるから」というのは正しい配慮であるには違いないのですが、「長くかかる」というのは本来司法制度の問題であるので、扶助制度の充実や審理期間の短縮など制度が変化すれば自ずと「迷惑」の度合いは低下することになるでしょう(決してなくなるわけではありませんが)。
 裁判官が個別具体的な事実を見つめる中で最高裁判例と異なる新たな事情を見出したとき、横並びにいる裁判官の通説的(に見える)見解に引きずられることなく判例と異なる判断を示すことは、裁判官の権利であるとともに、最高裁に対して新たな法規範を定立する機会を提供するという意味で裁判官の義務とも言えるのではないでしょうか。そういう観点からすると、ことさらに判決の統一性を求めることは、司法の判断が社会から乖離していくことにつながり、かえって当事者のためにも、社会のためにも、そして司法のためにもよくないのではないかなあと考える次第です。

*1:執筆当時佐藤氏は東京地裁総括判事。氏は最高裁調査官、東京地裁所長代行、静岡家裁所長などを経て仙台高裁長官。

*2:団藤氏は1984年に最高裁判事を退官。

*3:引用者注:破棄差し戻し

*4:守屋氏は東京家裁判事、仙台家裁判事などを経て仙台高裁秋田支部

人権擁護法案検討メモ―番外編その10

<はじめに>

 ええと、自分のほうから問題提起をしておきながら、いただいたお答えを受け止めきれずアップアップしてしまいました。いや、問題提起の時点で既に一杯一杯だったんですが。
 「“行政委員会が信用できない”と言っているのに、なんで“司法は信用できる”といえてしまうのか?」という私の問いかけに対して、bewaadさまからいただいたお答えがこちら。

  • Bewaad Institute @Kasumigaseki 
    • 「『法と正義』についてのとりあえずのまとめ」(2005年4月15日付エントリー)*1
    • 同「佐藤優国家の罠』」(2005年4月17日付エントリー)*2

 お答えの全文を参照すべきことは当然であるとして、その中核となる(と私が考えた)部分を抜粋させていただくと、

  • 法律の存在価値は奈辺にあるというのでしょう。あるべき結論を正当化するに当たって、その結論の客観的妥当性を図るための物差しである、というのがwebmasterの考えです。正当化のロジックには先日話題(笑)の陰謀論を含め多種多様なものがあり得ますが、その結論が他にどのような影響を及ぼすかなどについて、あれこれ法律を当てはめてその中になじむものがあれば、それは自ら導いた結論が主観的のみならず客観的にも妥当であると位置づけることができる、ということになります。
  • 法律(成文法)とは、「正義」そのものを表象するものではなく、「正義」の適格性についてのネガティブチェックのためのハードルである、そのように法と正義の関係を捉えるべきではないかと考えているのです。「正義」は、個別の事象にしか宿らないでしょうし、また、抽象的な文言に宿らせようとすべきではないと。
  • 他省庁は他にも依拠できる何らかの専門的な体系があるので(本件で言えば外務省にとっては、外交の世界のさまざまな慣習がそれにあたりますし、一番わかりやすいのは旧科学技術庁にとっての科学技術でしょう)、国民の多くから批判を浴びても、それだけで存在基盤がなくなるわけではありません。しかし、検察には国民の多くが正義と信じるものを実現することにしか、正統性の根源がないのです。
  • 「(略)検察庁実刑になるとは予測していなかったんだ。あの判決は以外だった。世論が税金の使い方に厳しくなったことに裁判所が敏感に反応したのだと思う。裁判所は結構世論に敏感なんだ。(略)」という西村検事の発言(p291)は、そんな検察庁から見てもさらに、最終的な「正義」の実現者である司法(英語で言えば正義も司法も同じ"justice"であるぐらいですから)は世論に阿らざるを得ないということについての証言だと思います。

ということになるでしょうか。

人権委員会の“正義”とは>

 以前私は、過去のエントリー「人権擁護法案男女雇用機会均等法」で「人権委員会を考える際には、準司法機関という側面よりも監督機関あるいは訴訟援助機関としての側面を掘り下げて検討したほうがよさそうです。」と申し上げておりますが、法案の検討を行うにつれ「人権委員会は“準司法機関(ADR)”としてよりも、『民事訴訟の当事者に対する資料提供』『訴訟参加』『差止訴訟の提起』といった活動を中心とする“ごく権限の弱い検察官”的役割を担うものとして捉えるべきなのではないか」と考えるにいたっておりました。
 にもかかわらず「人権擁護法案検討メモ―番外編その8」で人権委員会と裁判所を比較したのは、単に「検察官の中立公正性」について論じたテキストが少ないから、ということもあるのですが、人権委員会公取委、公調委など準司法機能を有する他の行政委員会と同じ扱いになっていること、「当事者双方の同意」という限られた条件ながら、一応は準司法機関としての機能を果たすことが求められていること、検察権は法を執行する権能として行政権に属するが、他方、公訴権が裁判に直結し、裁判と同様の司法的性質を有するものとされていることから、裁判官に求められている“公正らしさ”がある程度参考になるんじゃないかと考えたからです。
 本法案への反対論の中に、「法が恣意的に運用されることに対する危惧」を挙げる方が多いようですが、およそ“法律の意味”というものは、無限の事実連鎖の中から法的に意味のある事実とそうでない事実とが取捨選択され、法適用の対象となる事実関係が徐々に解釈的に構築されていくとともに、そうして構築されつつある事実と照合することによって、適用すべき法律の意味内容が次第に明確化されていくものであって、立法者の主観的意図に基づくものでも、法律それ自体に客観的に内在するものでもないと私は考えています。
 従って、「『正義』は、個別の事象にしか宿らない」というbewaadさまのお考えには全面的に賛同いたします。
 さて、法律の意味が文脈依存的に生成するものであるとして、その依存すべき文脈には“世論”が(当然のことながら)含まれるということも、bewaad氏は「国策捜査」を例にひいて言及されておられます。
 この「国策捜査」は、人権擁護行政においても存在するように思います。たとえば、いわゆる「アイスターによるハンセン病元患者に対する宿泊拒否問題」などは、国家を挙げて「らい病者」に対する迫害を行ってきたことに対する反動の表れであり、「国策捜査」に近いものであったように感じます。もちろん、ハンセン病(元)患者に対する宿泊拒否は許されるものではありませんので、人権擁護当局などのとった措置自体に問題があったとは思いません。ただ、「ハンセン病(元)患者に対する差別に断固たる対応をとる」という国や県の姿勢は、他の差別事象に対する対応に比べ「国策」の要素が強く感じられる、ということです。平成15年をとってみても、約1万9千件の人権侵犯事件のうち勧告に至ったケースはたった7件です。勧告は、個別の事件解決を目的としているというよりも、国の人権政策を社会に向けて宣言するという目的の方が強いと考えてもおかしくないように思います。
 このことと「法律が『正義』の適格性についてのネガティブチェックのためのハードルである」というお言葉とをあわせて考えると、必ずしも法律の専門家によって構成されるわけではない人権委員会がきちんと「法律というネガティブチェック」を働かせ、過度に“世論に阿る”ことを自制できるのか、という点につき不安を拭い去ることができません。

<「ネガティブチェック」はどこで働くのか>

 「『法律というネガティブチェックの欠如』という不安」は、同じ行政委員会である公取委に対しても向けられているということが、日本経済団体連合会が2004年7月13日に発表した「21世紀にふさわしい独占禁止法改正を求めて」に現われております。

  • 「現行の審判手続は、審判官(裁判官役)も審査官(検察官役)も事務総局の職員であり、いずれの最終決定権者も同じ公取委の委員であるため、身内が集めた証拠をもとに予断を持った上で審判に当たるという手続き(である)」
  • 「審判を受ける者と審査官の立場を対等なものとし、公平な立場の審判官がよく聞いて判断することで、適正手続を確保する(べき)」
  • 「事実認定は身分が保障された審判官(判事経験者を中心)が独立して行う(べき)。公取委は審判官の判断を尊重する(べき)」
  • 公取委の委員には、法曹資格者や経済実態に精通した学識経験者などを登用する(べき)※現在、5名の委員のうち、検察官1名、官僚(公取委のOBを含む)3名、経済学者1名」
  • 公取委事務総局の職員(約700名)のうち、法曹資格者はたったの8名しかいません。裁判官』の経歴を有する人が審判官の中に1名。『検察官』の経歴を有する人が審査部門に(違反行為の調査をする人として)2名、審判部門に審判官として1名。その他に『弁護士』の資格を有する人が、事務総局全体で、4名。」
  • 「5年以内に公取委事務総局の過半数を法曹資格者とするべき」

 公取委の審決は第一審裁判所の判決と同等のものであるとされています(独禁法第85条)。従って審決手続には刑事訴訟法の一部が準用され(同法第53条の2)、証拠に基づいて事実認定をしなければならない旨規定されております(同法第54条の3)。そして審決に不服がある場合は、東京高等裁判所に上訴することが出来ます。つまり公取委の審決に対しては、上訴によって法律に基づくネガティブチェックが行われることが制度上保障されています。
 これに対し、人権委員会の行う勧告は具体的に権利義務を変動させるものではなく、「このままだと、あなた訴えられますよ」「訴えられたら、あなたおそらく負けちゃいますよ」「場合によっては、裁判で相手方に味方しちゃいますよ」というものです(差別助長行為については「あなたを訴えちゃいますよ」というもの)。したがって処分性は認められず、差別行為の有無を確定させるためには当事者による民事訴訟が別途提起されなければなりません。つまり人権委員会の勧告と、その当不当を争う手続が必ずしも連続してはいない、ということができます(不特定多数に対する差別助長行為に対する勧告は、その後人権委員会による差止請求訴訟が予定されていますので、連続しています)*3

<おわりに>

 以上、つらつらと書いてまいりましたが、「法律が『正義』の適格性についてのネガティブチェックのためのハードルである」というbewaadさまのお考えに全面的に賛同しつつ、「では人権委員会にはその“ネガティブチェック”がきちんと働くのかなあ」という当初の疑問にもどってしまうわけです。
 なんだか従前の主張の繰り返しになってしまいました。
 最近煮詰まってしまい、更新が滞っています。サクサク更新できる方々がうらやましいです。
 正直なところ、法務部会・人権問題等調査会合同部会のドタバタを見るにつけ、真面目に検討する意欲が著しく減退してしまいました。

 平沢部会長も「とりあえず反対の意思を表示しておいた」という感じに見えますし、与謝野政調会長が「古賀氏一任は有効」との見解を示している以上、いつ政調を通過してもおかしくないような。その次の関門である総務会は全会一致が原則ですから、ここで是非とも慎重に議論してもらいたいと願うばかり(もちろん、部会・政調の段階でも慎重論議が必要であるには違いないのですが)。
 今週末は党総務会メンバーに陳情の手紙でも書くか。

人権擁護法案、自民・法務部会は審議を続行
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050423AT1E2200V22042005.html
 自民党法務部会(平沢勝栄部会長)は22日、調整が難航している人権擁護法案の審議を当面続けることを確認した。党人権問題等調査会の古賀誠会長は前日の法務部会などの合同会議で今国会提出の「一任を取り付けた」としているが、平沢氏らは同意していない。部会と調査会の見解が割れる異例の事態が続くことになった。
 与謝野馨政調会長は22日、平沢氏に古賀氏への一任は有効との認識を示した。ただ、反対派でつくる「真の人権擁護を考える懇談会」の平沼赳夫会長らは与謝野氏に「一任は認められない」と抗議した。法務部会は26日に再度、法案を審議する予定で、党内手続きが順調に進むかどうかは不透明な情勢だ。

*1:http://bewaad.com/20050415.html

*2:http://bewaad.com/20050417.html

*3:新設の公法関係確認訴訟による方法もありえますが、まだ判例の蓄積がなく不透明です。

法務省の人権擁護法案修正案について(人権擁護法案検討メモ―番外編その10)

 今回は、法務省が明らかにした(とされている)人権擁護法案 修正(予想)案について検討します。
 私は「白紙撤回の上改めて検討しなおすこと」が望ましいと考えておりますので、取り上げること自体を迷ったのですが、一応触れておく、ということで。
 法務省の修正案そのものを知りうる立場ではないため、松本純衆院議員のホームページより、『自民党法務部会における主な論点への対応案』*1」を参考にさせていただきました。

1.外国人に人権擁護委員に選任される資格を与えることは不適当。
法務省対応案)
○現時点では、その取り扱いにつき保留。

 私は、人権擁護委員日本国籍者に限定したほうがよいように考えます。
 従来、外国籍の国家公務員は国立大学教官や国立病院の医療従事者などに限られておりました。これらも現在は独立行政法人へと移行したわけで、独法化になじまないような「公権力の行使」「公の意思の形成」にかかわる国家機関内部で外国籍者が活動するというのは、やはり抵抗を感じます。
 日本国籍の取得要件の中に、「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと。」(国籍法第五条第一項第六号)というものがありますが、これはまあ「憲法愛国主義者」*2であることの確認とみることが出来るのかな、と思います。人権という憲法的価値を守ることを任務とする人権擁護委員は、日本国憲法の下に統合されていると信じうる者によって担われるべきだろうと思います(少なくとも日本国憲法の下に統合されることを認めているかどうか判らない人物には担ってもらいたくないと思います)。*3

2.人権擁護委員の推薦に当たっての団体構成員枠をなくすべき。
法務省対応案)
○法案第22条第3項の「弁護士会その他人権の擁護を目的とし、又はこれを支持する団体の構成員」との文言を削除する。

 本法案の可決成立後も、選考過程において各地区・一定の団体から候補者の推薦をお願いしているという現状は変わらないのでしょうが、条文中において候補者となりうる要件を「人格識見の優れた者“又は”弁護士会その他団体の構成員」と並列するのはやはりオカシイと考えますので、削除は妥当と考えます。それよりも、「地方議会への意見聴取」のトンネルぶりをなんとかする必要があるように思われますが。

3.「人権侵害」の定義があいまいであり、恣意的解釈が可能。
法務省対応案)
○法案第38条に、濫訴的な申出に係る事案等については、救済手続きを開始しない旨を追加するとともに、その具体例を規則で定める。
○法案第82条に、「他の者の人権を不当に侵害することがないように留意するとともに、本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用することがあってはならない。」旨を追加する。

 Bewaad氏も述べておられるように、もともと内規で定めており本法案においても規則で定める予定であったものを法律の文言中において明確にした、ということでしょう。

4.不当な人権侵害の申出の対象とされた者の保護が不十分。
法務省対応案)
○法案第38条に、人権侵害の申出があっても、その事実がないときは、申出の対象者が求める場合には、人権侵害が認められなかった旨の通知をする旨の規定を新たに設ける。
○勧告に対する不服の申出の制度を新たに設け、法案第60条以下に規定する。

 無茶な申立を行い“調査不開始”などの決定を導いてしまったとき、かえって相手方に“無実のお墨付き”を与えることになるので、この規定は申立を行う上での一定のハードルとして機能するように思われます。

5.人権委員会の判断に際しては、裁判手続きに準じた透明性を確保すべき。
法務省対応案)
○申し立てられた相手側の意見を十分に聴取するなどの手続的担保については、これを規則中に明記する。

 勧告対象者に対する意見聴取については、原案でも「人権委員会は、前項の規定による勧告をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告の対象となる者の意見を聴かなければならない。」(法案第六十条第二項)と規定されていたところですので、何ら前進しておりません。手続に対する批判とは、「裁判手続のような“対審構造”をとるべきではないか」というもので、例えば公取委のように審判官と審査官を分けるような方法は取れないのか*4、というものと推察するのですが、調査を行う者=勧告を行う者という“糾問”的構造は維持されたままのようです。
 そのかわり、勧告について以下のような修正を行うつもりのようです。

第六十条 人権委員会は、特別人権侵害が現に行われ、又は行われたと認める場合において、当該特別人権侵害による被害の救済又は予防を図るため必要があると認めるときは、当該行為をした者に対し、理由を付して、当該行為をやめるべきこと又は当該行為若しくはこれと同様の行為を将来行わないことその他被害の救済又は予防に必要な措置を執るべきことを勧告することができる。
2 人権委員会は、前項の規定による勧告をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告の対象となる者の意見を聴かなければならない。
3 人権委員会は、第1項の規定による勧告をしたときは、速やかにその旨を当該勧告に係る特別人権侵害の被害者に通知しなければならない。
4 第1項の規定による勧告を受けた者は、当該勧告に不服がある時は、当該勧告を受けた日から2週間以内に、人権委員会に対し、異議を述べることができる。
5 前項の規定による異議の申述があったときは、人権委員会は、当該異議の申述の日から1月以内に当該異議について検討をし、当該異議の全部又は一部に理由があると認めるときは、第1項の規定による勧告の全部又は一部を撤回しなければならない。
6 人権委員会は、第4項の規定による異議の申述をした者に対し、前項の規定による検討の結果を通知しなければならない。
7 第3項の規定は、第5項の規定により第1項の規定による勧告の全部又は一部を撤回した場合について準用する。

 第二項に定める「意見聴取」は「勧告をしようとするときは」なのですから、どのような勧告を行うかわからないままに行われるものではありません。従って第四項に定める「異議の申述」の内容は、第二項における「意見聴取」の際に勧告対象者が述べる内容と変わらないものになるでしょう。そうすると第五項の「当該異議の全部又は一部に理由があると認めるときは、第一項の規定による勧告の全部又は一部を撤回しなければならない」って、「撤回するんだったらそもそも勧告なんかするなよ。」ということになりはしないでしょうか。申立人の相手方から何にも事情を聴かないまま勧告案を作成するっていうなら別ですが。

第六十一条 人権委員会は、前条第1項の規定による勧告をした場合であって、次の各号のいずれかに該当する場合において、当該勧告を受けた者がこれに従わないときは、その旨及び当該勧告の内容を公表することができる。この場合において、当該勧告について異議の申述がされたものであるときは、その旨及び当該異議の要旨をも公表しなければならない。
 一 当該勧告について異議の申述がされなかった場合
 二 当該勧告について異議の申述がされた場合であって、前条第5項の規定により当該勧告の全部の撤回をするに至らなかった場合
2 人権委員会は、前項の規定による公表をしようとするときは、あらかじめ、当該勧告に係る特別人権侵害の被害者及び当該公表の対象となる者の意見を聴かなければならない。

 つまりこれは、人権委員会の審理手続が対審構造をとっていないから、「見解の対立する部分については、皆さんがそれぞれ判断してくださいね」と“世論に判断の下駄を預ける”ということでしょうか。
 でもこれって、「容疑者は否認している」という報道とさして変わりないように感じられるのですが。「国税当局との見解があったが、指導に従って云々」という報道を見て、国税当局と納税者の見解を対等に評価した上、納税者の見解を自らの行動準則に採用できる人が一体どれほど存在するのでしょうか。
 「当該異議の要旨を公表」というけれど、川崎市人権オンブズパーソン条例を取り上げたときに申し上げたように、抽象化の度合いが高まれば高まるほど読み手の判断材料は少なくなってしまうわけですし、「要約ぶり」によっては逆に差別があったことを裏付けるかのような印象を与えてしまうかも知れません。
 そもそも、“内閣任命&両議院同意”なんてべらぼうに権威を高く設定されている人権委員会の見解と勧告対象者の見解を並べて「判断はあくまでも国民一人一人ですから」なんて、本気でおっしゃるつもりなのでしょうか。
 もちろん、最高裁判決に対してすらしばしば「不当判決」との批判が行われるのですから、国家機関(人権委員会)の判断が直ちに国民の大多数の支持を受けるというわけではないでしょう。しかしたとえ「不当判決」であっても、裁判所の判断は社会に反映され、秩序を形作っていくことは認めざるを得ないわけです。「勧告当事者の反論はともかく、国家機関(人権委員会)はこう判断するのだ」という勧告が社会に影響を及ぼしていくことは間違いない(そしてそのような効力を認めているからこそ「公表」制度を設けようとしている)のですから、「異議の要旨も同時に公表されるから問題なし」とはとてもじゃないが言えません。
 百歩譲って、確信をもって差別的言動を行った者であるならば、そのような「勧告の公表」を受け入れられるかも知れません。しかし事実そのものに争いがある場合もあるでしょう。そのような場合には、申立人が別途民事訴訟を起こすまで事実を確定させることはできず、“両論併記”という宙ぶらりんの状態を甘受せざるを得なくなるのではないでしょうか(勧告対象者が債務不存在確認の訴えを提起することによって事実関係の有無等を争うことは可能でしょうが。)。
 また、このような“両論併記的公表”となった場合、「勧告を信じるか信じないかは国民次第だから」ということになり、国家賠償請求訴訟において勧告を公表されたことによる損害発生が認められにくくなるのではないか、という危惧さえ感じられます。

6.人権委員会に裁判所の令状なしに捜索・差押えを行う権限を与えることは、憲法に反する。
法務省対応案)
憲法は、刑事責任の追及を目的とする逮捕、抑留、拘禁及び捜索等に裁判官の発する令状を必要とする旨規定している(令状主義)。
○本法案で令状主義が問題となりうるのは、立入り及び物件の留置であるが、人権委員会は正当な理由もなく立入り等を拒んだ者に、裁判所を通じて過料を課すことができるのみであって、相手方が立入り等を拒否した場合には強制することはできないので、令状主義に反するものではない。
○なお、行政機関が調査のために過料や罰金で担保された立入り等を行うことができるとする規定は、独禁法第46条、公害紛争処理法第42条の18等多数存在している。

 拒否しようとしても物理力を以って排除され、抵抗が許されない捜索差押と違い、実施を拒むことができる立入検査等に裁判所の発する令状は必要ありません。
 しかし、適正手続が確保されているかどうか、立入検査等を行うことが出来る範囲は適切か、という問題についてはもっとよく検討すべきです。

 たしかに、法務省が説明するように立入等を行うことが出来る規定は多数存在します。(「立ち入り」の語を条文中に含む法令は、法令データ提供システムによれば512件存在します。)


特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律
第十二条
 国家公安委員会は、第八条の規定の施行に必要な限度において、製造業者等に対し、指定建物錠に係る業務の状況に関し報告させ、又は警察庁の職員に、製造業者等の事務所、工場又は倉庫に立ち入り、指定建物錠、帳簿、書類その他の物件を検査させることができる。

暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律
第三十三条
 公安委員会は、この法律の施行に必要があると認めるときは、国家公安委員会規則で定めるところにより、この法律の施行に必要な限度において、指定暴力団員その他の関係者に対し報告若しくは資料の提出を求め、又は警察職員に事務所に立ち入り、物件を検査させ若しくは指定暴力団員その他の関係者に質問させることができる。

医療法
第二十五条  都道府県知事、保健所を設置する市の市長又は特別区の区長は、必要があると認めるときは、病院、診療所若しくは助産所の開設者若しくは管理者に対し、必要な報告を命じ、又は当該職員に、病院、診療所若しくは助産所に立ち入り、その有する人員若しくは清潔保持の状況、構造設備若しくは診療録、助産録、帳簿書類その他の物件を検査させることができる。

 これらを見ていると、立ち入りが認められているのは、対象となる活動が許可なり届出なり指定なりを必要としており、規制に服することを対象者が予め承諾しているものがほとんどです。
 

麻薬及び向精神薬取締法
第五十条の三十八
 厚生労働大臣又は都道府県知事は、麻薬又は向精神薬の取締り上必要があると認めるときは、麻薬取扱者、向精神薬取扱者その他の関係者から必要な報告を徴し、又は麻薬取締官若しくは麻薬取締員その他の職員に、麻薬業務所、向精神薬営業所、病院等、向精神薬試験研究施設その他麻薬若しくは向精神薬に関係ある場所に立ち入り、帳簿その他の物件を検査させ、関係者に質問させ、若しくは試験のため必要な最小限度の分量に限り、麻薬、家庭麻薬、向精神薬若しくはこれらの疑いのある物を収去させることができる。
第六十四条  ジアセチルモルヒネ等を、みだりに、本邦若しくは外国に輸入し、本邦若しくは外国から輸出し、又は製造した者は、一年以上の有期懲役に処する。
2  営利の目的で前項の罪を犯した者は、無期若しくは三年以上の懲役に処し、又は情状により無期若しくは三年以上の懲役及び一千万円以下の罰金に処する。
3  前二項の未遂罪は、罰する。

のように、同じ麻薬及び向精神薬取締法でも令状を必要としない行政手続で立ち入りができるのは許可等が存在する事業所などで、それ以外の場所については令状を必要とする刑事手続によることになります。
 もともと許可等を必要としない活動領域において行政処分としての立ち入りを認めているのは、

児童虐待の防止等に関する法律
第九条
 都道府県知事は、児童虐待が行われているおそれがあると認めるときは、児童委員又は児童の福祉に関する事務に従事する職員をして、児童の住所又は居所に立ち入り、必要な調査又は質問をさせることができる。この場合においては、その身分を証明する証票を携帯させなければならない。

児童福祉法
第二十九条
 都道府県知事は、前条の規定による措置をとるため、必要があると認めるときは、児童委員又は児童の福祉に関する事務に従事する吏員をして、児童の住所若しくは居所又は児童の従業する場所に立ち入り、必要な調査又は質問をさせることができる。この場合においては、その身分を証明する証票を携帯させなければならない。

鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律
第三十一条
 環境大臣又は都道府県知事は、第二十八条第一項又は第二十九条第一項若しくは第七項第四号の規定による指定をするための実地調査に必要な限度において、その職員に、他人の土地に立ち入らせることができる。

らい予防法の廃止に関する法律第六条に規定する援護に関する政令
第二条
10 都道府県知事は、援護の決定又は実施のために必要があるときは、当該職員をして、要援護者の居住の場所に立ち入り、その資産状況、健康状態その他の事項を調査させることができる。

絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律
第十九条
 次の各号に掲げる大臣は、この法律の施行に必要な限度において、それぞれ当該各号に規定する者に対し、希少野生動植物種の個体等の取扱いの状況その他必要な事項について報告を求め、又はその職員に、希少野生動植物種の個体の捕獲等若しくは個体等の譲渡し等、輸入若しくは陳列に係る施設に立ち入り、希少野生動植物種の個体等、飼養栽培施設、書類その他の物件を検査させ、若しくは関係者に質問させることができる。

賃金の支払の確保等に関する法律
十三条
 労働基準監督官は、この法律を施行するため必要があると認めるときは、事業場に立ち入り、関係者に質問し、又は帳簿、書類その他の物件を検査することができる。
 
住民基本台帳
第三十四条の二
 都道府県知事は、第三十条の四十三第四項又は第五項の規定による措置に関し必要があると認めるときは、その必要と認められる範囲内において、同条第二項又は第三項の規定に違反していると認めるに足りる相当の理由がある者に対し、必要な事項に関し報告を求め、又はその職員に、これらの規定に違反していると認めるに足りる相当の理由がある者の事務所又は事業所に立ち入り、帳簿、書類その他の物件を検査させることができる。

土地収用法
第十一条
 第三条各号の一に掲げる事業の準備のために他人の占有する土地に立ち入つて測量又は調査をする必要がある場合においては、起業者は、事業の種類並びに立ち入ろうとする土地の区域及び期間を記載した申請書を当該区域を管轄する都道府県知事に提出して立入の許可を受けなければならない。但し、起業者が国又は地方公共団体であるときは、事業の種類並びに立ち入ろうとする土地の区域及び期間を都道府県知事にあらかじめ通知することをもつて足り、許可を受けることを要しない。

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
第三十五条
 都道府県知事は、第二十七条から第三十三条までに規定する措置を実施するため必要があると認めるときは、当該職員に一類感染症、二類感染症、三類感染症若しくは四類感染症の患者がいる場所若しくはいた場所、当該感染症により死亡した者の死体がある場所若しくはあった場所、当該感染症を人に感染させるおそれがある動物がいる場所若しくはいた場所、当該感染症により死亡した動物の死体がある場所若しくはあった場所その他当該感染症の病原体に汚染された場所若しくは汚染された疑いがある場所に立ち入り、一類感染症、二類感染症、三類感染症若しくは四類感染症の患者、疑似症患者若しくは無症状病原体保有者若しくは当該感染症を人に感染させるおそれがある動物若しくはその死体の所有者若しくは管理者その他の関係者に質問させ、又は必要な調査をさせることができる。

 など、ぐっと数が減ります。(ざっと見ただけですので、まだまだあるかも知れませんが、非常に限られているということは間違いありません。)
 これらの中で人権擁護法案と類似するものは児童福祉法児童虐待の防止等に関する法律ですが、これらは「疑いのある場所」にまで立ち入れるとしてはおりません。こうしてみると、人権擁護法案の定める立入検査等の範囲がいかに広いものであるかがわかると思います。児童虐待等については既に立ち入り等を行う根拠法令や行政機関が存在するのですからまあよしとしても(それでも改めて人権擁護法案で法定する必要があるのかという疑問は残ります)、その他の特別人権侵害に対する立ち入り等について、単に「他に立法例があるからよい」と片付けてしまうのではなく、今一度検討し直す必要があると思います。

7.人権擁護委員についての政治的中立性の規定がない。
(法務省対応案)
○現行の人権擁護委員には国家公務員法の適用が除外されているが、本法案の人権擁護委員については、非常勤の国家公務員であり、国家公務員法が原則として適用されるところ、同法第96条に「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、」との規定があり、この規定により、人権擁護委員は、職務を行うに当たっては中立・公平でなければならず、当然ながら政治的にも中立・公平でなければならない。

 論点1、論点2で既に述べてきたのですが、形骸化している選任過程をどうするかということに尽きるように思われます。拙ブログ「人権擁護法案検討メモ―その8」でも述べましたが、人権擁護にかかわる者がどのようにして「局外中立者性」を維持できるか、ということが制度に対する信頼を決定付けるように思われます。(この論点については、bewaad氏から丁寧なお答えをいただいておりますので*5、宿題とさせていただきたいと思います。
 以上、法務省の修正案(とされているもの)を見てまいりましたが、結局のところ「白紙撤回せよ」という私の見解を改めさせるものではありませんでした。

*1:松本純リポート2005」2005/04/08http://www.jun.or.jp/report/2005/050408jinken.htm

*2:祖国愛とか愛国心とかいったものではなく、憲法という規範価値のもとに統合されるという考え方です。

*3:言うまでもありませんが、「改正手続きに則った改正を主張すること」は許されます。公務員とは主権者である国民の信託によって憲法の運用を任務としている者ですから、職務の上で憲法を擁護しなければいけないのは当然です。

*4:公取の行う審決に対する中立性にも疑問の声があることを付言しておきます

*5:Bewaad Institute @Kasumigaseki 「『法と正義』についてのとりあえずのまとめ」2005年4月14日http://bewaad.com/20050414.html